新藤兼人が今日も封建主義に突撃する奇怪なメロドラマ『流離の岸』

基本情報

流離の岸 ★★☆
1956 スタンダードサイズ 101分 @アマプラ
製作:山田典吾、絲屋寿雄 原作:大田洋子 脚本:新藤兼人 撮影:伊藤武夫 照明:安藤真之助 美術:丸茂孝 音楽:伊福部昭 監督:新藤兼人

感想

■女子校の同級生の聖子(明石淳子)が兄貴を紹介してくれるっていうから医師の竜吉(三國連太郎)に逢ってみたらお互いにビビッときたけど、なんだか思わせぶりなことを言うから気にはなっていたら、結婚してからそんなこと言い出すあんたは人間のクズか!お前ら家族はとんだ腹黒一族なのか!?

■という変なお話なんですよね、実際。原爆スラムを描いた『夕凪の街と人と』で有名な女流小説家の私小説を映画化したものだけど、実に何が言いたいのかはっきりしない映画で、新藤兼人の脚本なのにいまいち要領を得ない。お話の本筋が見えてくるのが遅すぎるからだ。2/3くらいまで、一体何の話なのか判然としない。

■ヒロイン千穂(北原三枝)の母親(乙羽信子)は最初の夫に女ができたので里に逃げ帰った過去がある。ネタバレを避けるために曖昧な言い方になるが、終盤にもうひとり同じような境遇の女が登場し、ヒロインは自分の愛を貫くことが母と同じような境遇の母子を生み出すことを悔いて、男との愛を思い切ろうとする。その構図は確かに分からないではないが、かなり作為的で素直に納得できない。新藤兼人の筆なのにだ。

新藤兼人のテーマとしては封建主義の家制度の中で馴致される女の抑圧を描きたい思いがあり、そこが乙羽信子に託されるが、若い世代の北原三枝がその桎梏から抜け出す世代対立の話かとおもえば、そうではなく、封建主義は生きているということを告発して終わるだけのお話なので、すっきりしないのだ。

■冒頭に置かれる10年前の場面が重要で、女は聞かれてもいないことを自分からペラペラしゃべるな、女は猫のように静かに歩けと祖母(お馴染み、村瀬幸子の名演!)と躾けられ反発し、末恐ろしい娘じゃと嘆かれる千穂が10年後にどのように新しい世代を切り開いたのかといえば、そんな話じゃなくて、因果物語のように同じような不幸が螺旋状に連鎖する悲劇だったのだ。さらに、祖母の知人でヨレヨレの老婆が掘っ立て小屋に住んでいて、女なのに男に惚れて好きに好き勝手に生きた成れの果てと言い捨てられる。そうしたエピソードが因果ばなしのように積み重なるけど、その構図を突破する人間が描かれない。構図の中に埋没し、人間味が生きていない。

■それは北原三枝田中絹代の『月は上りぬ』でいかに溌剌と役柄を生きていたかということと比べると明白で、困り顔ばかりでは精彩を欠く。相手役の三國連太郎も、腹に一物含んでそうな青年を怪しげに演じるが、その狡さが演技的に彫刻できていない。乙羽信子は確実に好演するし、村瀬幸子も名演の部類だけど、若い二人の主演が冴えなくては厳しい。それに、あえてワケアリの兄貴を親友に押しつける聖子という娘の心理のほうが気になって仕方ないのは困りもの。もっと整理すればいいのに。

■ちなみに、浜村純とか菅井一郎とか脇役で出てきますが、ほぼセリフもない役柄で特別出演って感じ。金子信雄が没落貴族のような精気のない当主を演じるのが珍しい。

参考

夕凪の街=原爆スラムといえば、これだけの名作がありますよ。
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北原三枝の魅力爆発といっても過言でない。田中絹代の監督としてのセンスの良さは、やっぱり並ではないようだ。
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こんな映画があったのか!社会派”母もの映画”のハードボイルドな佳作『名づけてサクラ』

基本情報

名づけてサクラ ★★★☆
1959 スコープサイズ(モノクロ) 93分 @アマプラ
企画:芦田正蔵 原作:筒井敬介 脚本:植草圭之助 撮影:藤岡粂信 照明:森年男 美術:坂口武玄 音楽:小杉太一郎 監督:斎藤武市

感想

■日本人の母と黒人米兵の間に生まれたサクラ(福田みどり)は生みの母親を訪ねて、アメリカの養親の元から日本へ密航してきた。事情を知る姉がわりのユリ(中原早苗)は生みの母親(月丘夢路)を突き止めるが、成城の豪邸にすむ女社長だった。。。

■こんな映画が存在することもつい先日まで知らなかったのだが、結構大変な問題作で、母モノ映画の形式で敗戦後の日本の忘れ去りたいトラウマに粗塩を塗り込む意欲作。ほとんど同時期に今井正の傑作『キクとイサム』が公開されているので、対抗意識満点で打ち出したものだろう。母モノ映画はその昔の日本映画の定番路線で、各社が製作し、安易なお涙頂戴映画と軽蔑されたが、なかには社会派映画に属する意欲作も存在し、例えば佐伯清の『嵐の中の母』は八住利雄のオリジナル脚本で、息子の白坂依志夫が父親の唯一の傑作と語る傑作。(脚本を読んだだけで未見ですけど!)

■『キクとイサム』では高橋エミ子という少女が天才的な芸達者で誰しも圧倒されたのだが、本作の福田みどりは演技的には未熟。というか演技的には普通の子役です。しかも斎藤武市がけっこう安易にメソメソ泣かせるので、そこはあまり心に響かない。

■でも脚本が実によく書けていて、ホントに見事。植草圭之助黒澤明の初期作品で有名だけど、その後あまりパッとせず、フィルモグラフィー的には地味なので、本作なども迂闊に見逃されたのだろうけど、なかなか普通に書ける脚本ではない。本作には原作があって、筒井敬介という人のラジオドラマらしいので、オリジナルがどの程度残っているのか不明だが、特筆すべきはやはり産みの母を演じる月丘夢路のセリフの数々だし、この女性の人物造形にある。

月丘夢路って、一羽高麗人参茶のイメージが強烈なので、旧統一教会絡みで認識される傾向があるけど、50年代の映画はホントに凄かったので、そのことは明記しておきたい。もちろん製作陣が用意した役柄なんだけど、当時の月丘のイメージのなかに、極めて先進的な女性像が仮託されたふしがある。それは松竹のスター女優では満足できず(?)敢えて独立プロの『ひろしま』に出演する事件から、女性の性欲の発露を鮮烈に演じた『乳房よ永遠なれ』の主演とか、当時の最先端の女性像が月丘によって開拓された経緯を踏まえているだろう。

■本作の女社長の大筋の振る舞いは母モノ映画の定石ではあるが、その理知的で合理主義的なセリフや、情に流されまいとする強固な意思の発露には、戦後社会の最先端を切り開こうとする女性像が強烈に彫刻されている。この女性像には明らかに『乳房よ永遠なれ』の実在した中城ふみ子のハードボイルドな生き方が反映している。日活の社会でも、あの映画で月丘が演じた女性像の凄さが共有されたに違いない。

■サクラのために半分は親身になって、半分はお金にならないかなと思って協力する、柄は悪いけど気は良さそうな洋パン(また出た!もはや日活映画名物ですね)をお馴染み、中原早苗が熱演して、出番も多いしほとんど主演なみの大活躍。斎藤武市の演技指導が甘かったようで、最善の演技ではないけど、誰が観ても役得ですね。

■さらに凄いのがサクラが昔いた修道院の院長を演じる村瀬幸子で、愚かな母を演じたら日本一の新劇女優だけど、本作はその代表作ですね。圧倒的に凄い。キリスト教会の官僚主義を体現する人物で、要は個人的な幸せを望んではいけない、それは神が戒めた人間の罪だと説き伏せようとする。今ある境遇をすべて受け入れることが幸せへの道であると説く。ある意味、それは言い方次第でその通りだったりするのだが、脚本は批判的に描いていて、村瀬幸子がそのとおり正確に演じる。この映画には二人の母親が登場し、修道院長の母も、産みの母も、それぞれの論理と倫理でサクラを拒絶する。だからサクラにとっては現世に居場所がないのだ。

■映画はそのことを辛辣に描き、全く救いを残さない。とことんサクラを追い詰める。でもそれはお涙頂戴のためではなく、現実に敗戦後の日本社会の歪さそのものであって、それはサクラという少女ひとりの問題ではないからなのだ。

■それでも産みの母は、世間体に引き裂かれながらも産み捨てた我が子の名を呼び続ける。そこに唯一のぞみが残されたのかもしれない。やはりここでも月丘夢路の絶妙にリアルな演技は圧倒的で、頑張った中原早苗の熱演もすっかり消し飛んでしまう!

■ちなみに、本作の配信原版の品質はかなり劣悪で、そもそもクレジットも出ないし「終」の字も出ない。ネガテレシネではなく、パンチマークのあるポジ出しの原版で、妙なビデオテープ的なノイズも乗っている。でもこれ作品的な価値がかなり高いので、なんとかリマスターを作成するべきだと思う。日活さん、よろしく!

参考

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斎藤武市って、娯楽職人ってイメージだけど、ときどき妙に凄い映画を撮ってしまう。
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日活映画には洋パン映画という系譜があってですね。もちろん終戦直後にはパンパン映画の系譜もあるのだ。(ただし日活はまだ製作再開していなかった!)
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日本の愚かな母を演じ続けて幾星霜、その名は村瀬幸子。
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とれとれピチピチ『蟹工船』

基本情報

蟹工船 ★★☆
1953 スタンダードサイズ 112分 @DVD
製作:山田典吾 原作:小林多喜二 脚本:山村聡 撮影監督:宮島義勇 撮影:仲沢半次郎 特殊撮影:佐藤昌道 特殊技術:奥野文四郎 照明:吉田章 美術監督:小島基司 美術:渡辺竹三郎 音楽監督伊福部昭 監督:山村聡

感想

■昭和初期、カムチャッカの海でカニ漁とカニ缶加工に携わる蟹工船は浅川監督がすべてを牛耳る独裁国家さながらだった。事故で死んだ漁夫の弔いもろくにさせず遺体を海に遺棄した監督に漁夫たちの怒りが爆発、労働環境の改善要求を突きつけるが。。。

小林多喜二のお馴染みのプロレタリア文学の古典を左翼独立プロがイケイケだった時期に映画化した野心作。その制作経緯にも興味は尽きないが、スタッフは独立プロの大物がずらり。しかも脚本と監督が山村聡という異色作。もちろん特撮シーンもあるが、低予算ゆえ、合成カットがいくつかあるくらいで、ミニチュア撮影はプールの水平線に船舶のシルエットが見える程度。

■原作からかなり大きく改変した脚本はあまり褒められたものではなく、そもそもフィルムの傷みがはげしいDVDなので、セリフも聞き取りにくく、鑑賞には困難が伴う。山村聡森雅之は力のないインテリ役で脇役として登場、主人公はなく、群像劇になっている。そこも作劇の弱さに繋がっていると思う。一番目立つのは浜村純や河野秋武や小笠原章二郎といった底辺の労働者たち。当然だけど。

■いや違う。一番目立つのは会社の立場を代表して蟹工船を牛耳る監督、浅川を演じた平田未喜三という俳優。正確には職業俳優ではなく、千葉県 安房鋸南町の網元や町長を務めた地方の名士で、日活の若手だった平田大三郎の父親。この人物の破天荒な生き方を東宝で映画化した際に、山村聡が本人を演じた経緯があり、山村聡がこの難役に起用したらしいけど、素人のおじさんに見事に演じさせたのは山村聡、素直に凄いんじゃないか。黒澤明は幻の『トラ・トラ・トラ』で試みたけど、なかなか埒が明かなかったようだし。これがタイプキャストの悪役俳優に演じさせると、この恰幅のいい、腹黒さの計り知れない妙なリアリティは出ないだろう。そしてこうした経験を山村聡は自身の演技に生かしたのではないか。『傷だらけの山河』の大資本家役なんて、その成果じゃないだろうか。

蟹工船の船底にはあらくれ労務者たちの慰みものになる少年たちが雑魚寝している様子も末世的な光景で、昭和28年によく描いたと感心する。見るべき部分は少なくないし、起承転結はキレイに決まっているのだが、職業脚本家に書かせればもっとバランスが良くなったと思うなあ。

■最終的に蟹工船労働争議は駆けつけた駆逐艦によって平定され、まるで『戦艦ポチョムキン』の大階段のように、労働者たちは「売国奴」の名のもとに、同胞たちによって撃ち殺される。蟹工船駆逐艦が仲良く寄り添うように連れ立った姿で映画は終わる。大日本帝国海軍はロシアの戦艦から同胞を保護するために警備するのではなく、ロシアに接近することで赤化する労働者たちを駆除するために、そのにいるのだ。まあ、そのあたりのロジックは原作のほうが念入りに描いているだろうけど、単純に活劇として盛り上がるものの、演出としては全般に未熟だと感じる。監督は半素人だけど、技術スタッフはベテラン揃いなので、そこには制作体制の困難さがうかがえるのだが。

参考

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平田未喜三って、滝沢修より大物に見えたりするから凄いよね。なぜか『ノストラダムスの大予言』にも出てますよ!
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韓国の奴隷島事件を描いた社会派実録映画?と思ったら違った!『奴隷の島、消えた人々』

基本情報

奴隷の島、消えた人々 ★★★
2016 ヴィスタサイズ 88分 @DVD

感想

■韓国のとある孤島の塩田で奴隷的な労働が強制されている。そんな憶測の裏を取るため、テレビ局の記者が潜入し、冬枯れた塩田労働者が知的障害者であることを確信するが、地元警察に虐待の通報をしても善処しないばかりか通謀していて。。。

■というお話で、「新安塩田奴隷労働事件」という実在の事件を描いている。というなんとなくの予備知識だけで観たのだが、実はそれらしいのは第二幕までで、第三幕は思いがけぬ逸脱を見せる。第二幕までのPOV形式の潜入取材場面は、確かにドキュメンタリー的なのだが、そもそもの「新安塩田奴隷労働事件」って、労働者が100人以上存在したという事件なので、この映画で描かれる事件とはスケール感が違う。映画ではあくまで特定の一家が首謀者として描かれる。しかも、どうもその一家も何者かに殺された、殺人事件が絡むらしい。。。

■正直なところ、社会派実録映画と思い込んで観ていたので、終盤の超展開には呆気にとられました。え、連続殺人鬼モノだったの?韓国映画お得意の連続殺人鬼映画のジャンル映画ですよ、これ。だから社会派としての問題意識は希薄で、どやビックリしたやろ!という姿勢で撮られている。

知的障害者を低賃金で奴隷的な労働に従事させる塩田経営者の狂ったロジックを描くのでは、もちろんなくて、奴隷的な労働で支えられる孤島の塩田で起こった謎の連続殺人事件はなぜ起こったのか?というミステリーになっている。確かに、意表を突きはするが、知りたかったのはソレじゃないという場違いな感じは拭えない。それなりに面白いんだけど、そもそも犯人は何がしたかったの?このあとどうなったの?というところが投げっぱなし。正直、犯人像には謎が多い。塩田事件の前に発生していたという未解決の連続殺人事件まで持ち出して、語り口はご都合主義というものだ。

■POV場面で、キャメラがズームするたびにウィーンってレンズが動く効果音をつけるのも鬱陶しい。いまどきそんな音、録音に入りませんよね。POV場面で演出は正直わざとらしいだけ。素材となった事件の内包する地方社会全体の問題を矮小化してサイコパスのお話にしてしまったのは、さすがに竜頭蛇尾の感を拭えない。その意味ではかなり残念なんだけど、サイコスリラーとしては退屈ではないんだよね。

ロリコン親父にレズビアンの鉄槌を!『美しさと哀しみと』

基本情報

美しさと哀しみと ★★☆
1965 スコープサイズ 103分 @DVD
企画:佐々木孟 原作:川端康成 脚本:山田信夫 撮影:小杉正雄 照明:中村明 美術:大角純一 音楽:武満徹 監督:篠田正浩

感想

■小説家の大木(山村聡)は、かつて十代の少女を懐妊させ捨てた過去がある。だがいまは画家として成功しているかつての少女、音子(八千草薫)と京都で再開する。しかし彼女の内弟子のけい子(加賀まりこ)は音子と同性愛関係にあり、師匠の復讐のために小説家と関係すると、さらにその長男(山本圭)まで誘惑しようとする。。。

■というお話で、ずいぶん昔に観ていたのだが、ほぼ忘れていたので改めて再見した次第。確かに、第一幕のあたりは演出も技術スタッフもノリノリで先鋭的かつグラフィカルな画面構成がキレキレなので、この調子でいけば傑作になるのではと思わせる。実際、京都の音子の家の場面は、美術装置も豪勢なものだし、逆光気味に二人の美女を捉えた様式的な映像は絶品。まるで大映京都かと見違えるほどに陰影を濃く色付けして、大胆な照明設計で、美的で幻妖な時空を生み出す。直角移動による長廻しのショットが白眉だし、ステージ内の俯瞰撮影も凄い。小杉正雄の撮影は端的に凄い。この時期松竹では成島東一郎などの新鮮なキャメラマンが台頭していたので、ライバル意識が燃えたのかも。

■このタッチで文芸怪奇ロマン映画にしてくれれば文句はなかったのになあ。実際、狂気と怨念が交錯する道具立てや苛烈な人間関係など、怪奇ロマンとしてまとめた方がしっくり来るはず。もちろん、文豪の原作なのでそんな通俗は許さないわけだが、お話の筋立て自体相当に通俗だからね。

■脚本が山田信夫なので期待したのだが、正直原作に振り回されて消化不良だ。原作の衒学的な台詞を尊重したようだが、そんなのもっとバッサリと整理すべきだった。その方がテンポが良くなって、面白くなるから。

■お話の第三幕が山本圭演じる大学生をけい子が篭絡して堕落させる場面になるのだが、これがどう考えても駆け足すぎて未消化だ。二人の泊まったホテルに母親(渡辺美佐子)から荷電がある場面もドラマ的には見せ場だけど、なにしろすでに時間がないから発展しないし、琵琶湖ホテルの部屋自体が装置として無味乾燥で面白みがない。これが増村保造なら、役者の演技だけで堂々たるクライマックスを形作るところだけど、篠田正浩にその熱量はない。もっとクールなのだ。

■最終的なドラマの決着もボート事故で山本圭が死にましたで終わっても、まったくテーマ的に落ちがつかないし、クライマックスの高揚が成立していない。映画には(演劇由来かも?)スパッとクライマックスで幕を引く手法もあって、成功作も少なくないのだが、本作はそうした趣向でもないようだし、結局何がしたかったのか?という感想しか残らない。けい子の山本圭への愛情は全く無かったのか、純粋に恋しい音子の身代わりとしての復讐劇だったのか、もちろんそこは曖昧にさせるわけだけど、増村保造ならその曖昧さを残しつつ、もっと強引な図式劇を敷いてでもクライマックスのカタルシスを構成するよなあ、と思う。

参考

正直、以前に観たときの評価は高すぎましたね。篠田正浩は『乾いた花』を観ちゃったからなあ。
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『乾いた花』は奇跡的な傑作ですね。篠田正浩の資質が完璧に映画に反映した畢生の傑作。
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父ちゃんは辛いよ(全部自業自得だけど!)『黒い傷あとのブルース』

基本情報

黒い傷あとのブルース ★★☆
1961 スコープサイズ 86分 @アマプラ
企画:児井英生 原作:山野良夫 脚本:山崎厳、吉田憲二 撮影:岩佐一泉 照明:岩木保夫 美術:木村威夫 音楽:大森盛太郎 監督:野村孝

感想

■神戸で小牧(大坂志郎)という男の裏切りで濡れ衣を着せられ5年の刑期を終えたやくざな男(小林旭)は、復讐を誓って神戸に帰ってきた。小牧が横浜にいると聴き込んだ男は、敵がスーパーの店主になっていることを掴むが、偶然出会った可憐な娘(吉永小百合)の父親であることを知ると。。。

■日活ムードアクションのルーツのひとつと言われる本作、たしかにその雰囲気はあるが、まだまだ甘いのだ。前年の『やくざの詩』の方がずっと苦々しくて含意が深い。哀愁が足りないのだ。おしゃれなレストランに向かう旭の回想から始まる構成はさすがに効いているし、小百合(現実)を取るか、船出(自由)を取るか、という選択も、あたりまえながら納得の結末で、非常にキレイにできてはいるのだが。

小林旭吉永小百合のロマンスが清潔に描かれるが、のちの裕次郎&ルリ子の大人のムードではなく、青春映画のニュアンスだ。そこが物足りないと感じる。野村孝という監督もなかなか掴みどころがわからない人で、『いつでも夢を』などという清々しい勤労青春映画の傑作を撮るし、異形の日活ムードアクションの傑作『夜霧のブルース』も撮る。『拳銃(コルト)は俺のパスポート』というハードボイルドの傑作もある。もともと東大の学生運動で鳴らした人らしいが、日活では政治的な主題には触れず、完全に職人監督として粛々と企画をこなす雰囲気だった。

■本作は主人公がかなり類型的なので、ドラマの見せ場はむしろ小悪党の大坂志郎になってしまう。実際、旭と吉永小百合の両方から責め立てられる可愛そうな役どころ。もちろん自業自得なので当然の報いだけど、それが人間の弱さということなので、本作で一番人間らしい役を演じたことになる。明確にこの人物を主役として描いたほうが、異色のサスペンスになっただろうね。でも本作ではあまり丁寧には描かれず、大坂志郎の演技も特に優れたものではない。『人間狩り』などの名演と比べると、どうしてもそう感じる。

参考

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『やくざの詩』は相当な問題作で傑作なんだけど、ほぼ忘れられた映画。
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大坂志郎は公私共にクセのある個性派俳優で、ほんとにいい役者だった。『人間狩り』の演技は老け役の代表作だろう。
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慎太郎原作映画は傑作ぞろいの法則?ろくでなし大学生たちの罪と罰『完全な遊戯』

基本情報

完全な遊戯 ★★★★
1958 スコープサイズ(モノクロ) 93分 @アマプラ
企画:高木雅行 原作:石原慎太郎 脚本:白坂依志夫 撮影:横山実 照明:高島正博 美術:坂口武玄 音楽:真鍋理一郎河辺公一 監督:舛田利雄

感想

■退屈な大学生たちはボロい金儲けを夢想するうち、競輪場とノミ屋の事務所にタイムラグが生じることを利用して詐欺を働き、濡れ手に粟の一攫千金を思いつく。当日、目論見どおり計画は順調に進展するが。。。

■1958年は大映増村保造が『巨人と玩具』を撮って、その脚本も白坂依志夫が書いたのだが、同年日活のために書いたのが本作。監督は増村とは同年代で日活のエース、舛田利雄。日本映画史にはあまり名前は出て来ないが、その筋ではわりと有名な本作、かなり以前になんとなく観ていたが、改めて再見すると、これは間違いなく傑作でした。

■お話は単純だけど、競輪のノミ屋を騙して一攫千金という計画のサスペンスは当然うまく描かれるし、学生たちがノミ屋のヤクザを強請るという展開も皮肉だし、ヤクザの妹を人質にとったばかりに学生たちの品性の悪さが露呈して悲劇が加速するあたりのヒヤヒヤする嫌な展開、小林旭芦川いづみの残酷な再開場面の情感演出も、まったく破綻がなくて、メリハリの効いた見事な演出。特にメロドラマ的な部分がホントに上手くて、舛田利雄は活劇派と言われるが、メロドラマと活劇の両面に突出した才能を持った人で、そのメリハリの振れ幅の広さが特徴。さらにこの時代の作品は、そこに加えて思想性や思索的な要素がこってりと盛り込まれ、異様に充実している。

■学生たちのリーダーが梅野泰靖で、無軌道なグループのなかで知性派として知能犯罪を指揮するが、借金のかたにヤクザの妹を拉致したことから手下の学生たちが暴走すると、内心絶望している。一方で良心に目覚めて裏切った小林旭にも共感しながら、自分たちの犯罪行為に罪を感じて反省することはしない。インテリ学生として、自分たちのしたことの意味を冷めた目ですべて悟りながら、小林旭のように改心はしない。その屈折した心情をきちんと演じる名演。

芦川いづみはいつものように被虐のヒロインとして登場し、野蛮な男子学生たちによって散々な目に遭うのだが、「佳人薄命」で片付けられてしまう理不尽。もちろん小林旭はヤクザの兄妹(さらに母親)と関わり合うことで、自分の罪を自覚するようになるのだが、そもそもヤクザの妹を巻き込むことを軽薄に発案したのは自分自身なので、罪を自覚した途端にもう身の置き場がないのだ。

キャメラはベテランの横山実なので、キャメラワークはオーソドックスで安定感があり、照明もわりとフラット。間宮義雄とかが撮れば、もっとキャメラが動き回ったかもしれないが、1958年だからまだ早いか。1963年の『狼の王子』くらいのラフなキャメラワークでも良かった気はする。でも、日活のモノクロ映画ってなんでこんなにキレイなのかな。本作のアマプラの配信原版は、非常にきれいなリマスターを使用してます。

■後年の『われらの時代』に比べると白坂依志夫の脚本は地に足がついていて、自家薬籠中の物という感じで、淀みがない。構成もタイトだし、登場人粒たちに血が通っているし、テーマも明快。観念的な図式劇だった『われらの時代』が★★★☆だったから、本作は★★★★とせざるをえないなあ。そういえば、『巨人と玩具』も相当な図式劇だったけど、白坂依志夫って、意外と図式劇の大家なんだな。その資質を生かして後年もっと大作を書けばよかったのにね。それこそ『戦争と人間』とか、大きな構図で明確な図式劇として再構成すればよかったよね。

参考

石原慎太郎原作の映画化は傑作揃いですね。なんで?
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ずっと時代を下って、こんな映画もありましたが、これは例外ということで。
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日活にはなぜか競輪映画の系譜があった。しかも傑作揃い。なんで?
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いつの時代も、青年たちは日本の未来に絶望していた。それが日本の戦後ってことらしいよ!『われらの時代』

基本情報

われらの時代 ★★★☆
1959 スコープサイズ(モノクロ) 97分 @アマプラ
企画:高木雅行 原作:大江健三郎 脚本:白坂依志夫 撮影:山崎善弘 照明:森年男 美術:松山崇 音楽:佐藤勝 監督:蔵原惟繕

感想

■洋パン(渡辺美佐子)のヒモとして大学に通う主人公(長門裕介)は米国に隷属する日本に絶望してフランスに脱出しようとしていた。一方その弟(小泉静男)はバンド仲間の朝鮮人(小高雄二)の導きで、世の中をあっと言わせるために爆弾製造にのめり込むが。。。

■というお話で、なぜか日本映画史の歴史の中に埋没してしまって、ほとんど忘れられた映画になっているが、なかなかの問題作で、無視し難い意欲作。もちろん大江健三郎のヒット小説の映画化という文芸大作路線だが、なにしろ内容が内容なので、松竹ヌーベルバーグ派が手掛けるか、日活の若手が作るかしか選択肢がなかっただろう。そして何故か(?)日活の企画者が映画化権を取得した。しかも脚本は若手バリバリで、原作者とも親交があった白坂依志夫が担当する。前年に大映で『巨人と玩具』、同年に東宝で『野獣死すべし』を書いた絶頂期の筆だ。企画、座組ともにこれ以上無いくらいに最尖鋭の映画である。なのに、結局は日本映画史のなかで忘れ去られてしまった。それはなぜか?

■原因は原作そのものと脚本家の若さが、生硬で観念的な脚本となってしまったことにあると思う。増村保造の『巨人と玩具』も相当に図式的な構図で押し切った映画だが、本作もかなり図式劇に見える。観念としてはわかるし面白いけど、血の通った人間に見えない弱点がある。同様に小説の映画化で、これも相当に観念的だった舛田利雄の『狼の王子』では、現代ヤクザ映画の仮面をかぶりながら戦後日本に対する最尖鋭な批判であると同時にファッショナブルであり、しかもリアルな人間像を実感させた天才的な離れ業と比べると、やはり上滑りな感じがするのだ。それは原作由来でもあろうし、脚本家の若さにもよるだろう。(原作小説、読んでないけどね!)

■実際、長門裕之渡辺美佐子の演技もイマヘイ映画などに比べると特に優れたものではなくて、演技的に見どころなのはむしろ日本で在日として生まれ、朝鮮戦争に米兵のお稚児さんとして同行したという、屈折した青年像を演じた小高雄二で、これは役得だった。こんな脇役、東映映画以外では考えれられないと思っていたけど、ちゃんと日活でも描いていたのだ。というか、日活ではすでにしれっとイマヘイが『にあんちゃん』を作ってるからね。(後年に浦山の『キューポラのある街』もあるけど)

■基本的に演技は苦手な小高雄二だけど、ときどき配役の妙で変な持ち味を発揮する個性派俳優で、前田満州男の『殺人者を追え』などもガチガチの生真面目な若者らしい生硬さが生きていたが、本作でも上手い下手を超えた独自の存在感を刻みつけた。映画俳優は、確かにこれでいいのだ。演技の技術的な巧拙よりも、キャスティングそのものが命なのだ。その意味では、長門裕之渡辺美佐子吉行和子もけっしてキャリアのベストアクトとはいえないから、蔵原監督はあまり演技指導には熱心でなかったのかもしれない。憎まれ役の金子信雄の使い方も、まさに東映的ともいえる類型的な演技を要求しており、効率的ではあるが人間味に膨らみがない。

■映画冒頭のナレーションの

「日本の若い青年にとって、希望と呼ぶべきものはない。(中略)未来へ豊かな夢を描くことができない。(中略)じっとしたまま老いぼれるのを待っている。やがて、胃がんで病院の貧しいベッドの上で安らかに死ぬ日が来るのを待っている。」
(映画より採録

から始まって、

「だが若者たちは自殺のために飛び込む勇気すらない。そこで若者たちは意味もなく生きてゆく。だらしなく生きてゆく。それが青年たちの、”われらの時代”だ。」
(映画より採録

とナレーションで全部語ってしまうのもいかがなものか。そもそも胃がんで穏やかに死ぬのを待っているとか、いかにも作者たちの、若者らしい無知としかいえない。緩和医療が発達した現在ですら、がんを発症した人間は、そんなに楽に死ねはしないのだから。

■そうした作者たちの、特に脚本の白坂依志夫の、観念的な若書き、若気の至り感がこの映画を忘れられた映画にしてしまったのだ。でも、それでも、60年安保前夜の日本の若者たちの気分を代弁して記録したという意味では、捨てがたい価値と魅力のある映画であって、再評価が必要だと思うのだ。若者たちは常にこの国の未来に絶望し、ここでないどこかへの脱出願望とともにあった。それは令和の時代、今日そのものとも言え、60年前の日本(の若者)と大して変わらないように見える。いや、少なくとも戦後ずっと、日本の若者はこの国の未来に絶望し続けてきたらしいのだ。そのことを改めて認識する必要があると思うのだ。

わたしは死刑囚と結婚した女!忘れられた実録社会派恋愛映画の秀作『愛と死のかたみ』

基本情報

愛と死のかたみ ★★★☆
1962 スコープサイズ(モノクロ) 102分 @アマプラ
企画:芦田正蔵 原作:山口清人、山口久代 脚本:棚田吾郎 撮影:高村倉太郎 照明:大西美津男 美術:坂口武玄 音楽:小杉太一郎 監督:斎藤武市

感想

■長崎原爆で両親をなくし、終戦後ぐれて強盗殺人事件を起こした死刑囚(長門裕介)と文通を続ける福井の娘(浅丘ルリ子)は地元の有力者の跡取り(波多野憲)から求婚されていたが、求婚者がそのことを知って婚約解消を切り出したとき、自分を真に愛しているのは誰かということを問い直す。。。

■1962年に発表されてベストセラーになったらしい(さすがに生まれていない!)実録原作をさっそく映画化したもので、明らかに後年の大ヒット作『愛と死を見つめて』の企画に繋がっている。企画者は違うけど、監督も同じだ。もちろん実際にあったお話で、つまり共著者の山口清人氏はそのときすでに死刑が執行されていたのだ。

■脚本は棚田吾郎で、かなり当たり外れがある人という印象だが、ハマると非常に見事な脚色術を発揮する。本作も成功作で、二人の独白や手紙の文面を積極的に利用しながら、かなり複雑な二人の境遇や関係性の変化を効率的に描きながら、しっかりと省略もきいていて、さくさく時制も進行し、展開に淀みがない。その話術に驚く。舞台は博多と福井を行き来し、さらに長崎まで足を伸ばす。悲劇の淵源には長崎原爆の惨禍があったことを静かに訴えるのも異色だ。

■監督は斎藤武市なので、もちろん演出ぶりも悪くはなく、二人が何度か刑務所で面会する場面などは、さすがに静かな感動に包まれる。ふたりとも声を落として、ほとんど吐息で囁くような、親密で緊迫した会話。このあたりの演出には全く抜かりがない。ハリウッドならアカデミー賞を取るくらいのレベル。一方でもう少し粘ればいいのにと感じる部分もあり、特にラストの浅丘ルリ子の受ける衝撃についてはもっとキチンと押すべきだろう。これが熊井啓ならもっと溜めを作って、音楽効果込みでガーンと泣かせるところ。(まあ通俗ですが)

■でも素材のユニークさとともに、死刑制度の理不尽さを静かに訴える社会派映画として再評価が必要だと感じる。死刑囚の再審請求をめぐって、教会を中心として社会活動に発展する件も描かれるが、棚田吾郎なのでそこはさらっとしていて、これも熊井啓ならもっと正面からゴリゴリ硬派に押すところ。その意味では物足りない部分は残るけど、死刑囚の置かれた人道的に非情な境遇とその心理を静かに的確に描いてしまった点はもっと評価されるべき。刑務所の内部はもちろんセットだけど、重要な場面なので、かなり大規模な贅沢なセットが組まれているのも贅沢。

■配役も豪華で、福井の牧師が滝沢修で、福岡の刑務所では永井智雄がいる。特に秀逸なのが、例によって色悪を演じる波多野憲で、浅丘ルリ子の同級生役の松尾嘉代との結婚が破綻すると再審請求に協力するふりをしてルリ子を呼び出して無理やり関係しようとする根っからの卑劣漢だ。1960年の『学生野郎と娘たち』では芦川いづみを手籠にしたことで注目された(?)全女性の敵だ。劇団民藝の若手だったはずだが、完全にそんな色悪キャラで売っていたのね、日活では。

参考

これは日活の「愛と死」シリーズなのか?あるいは三部作?でも全部完成度が高く、たんなるメロドラマではない意欲作。
maricozy.hatenablog.jp
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怪奇趣味の同好の士に贈る!無性に愉快な怪奇スリラー『散歩する霊柩車』

基本情報

散歩する霊柩車 ★★★★
1964 スコープサイズ(モノクロ) 88分 
企画:秋田亨 原作:樹下太郎 脚本:松木ひろし、藤田傅 撮影:西川庄衛 照明:城田昌貞 美術:進藤誠吾 音楽:菊池俊輔 監督:佐藤肇

感想

■グラマな女房(春川ますみ)が浮気三昧なのに嫉妬した小男のタクシー運転手(西村晃)は妻を殺すと、霊柩車に乗せて、不倫関係にあった男たちを強請る奇妙な旅に出るが。。。

■というのがお話の発端で、このあと二転三転する凝りに凝った怪奇スリラーで、でも全体的にコメディであるという、なかなか日本映画では例を見ないマニアックで洒落た映画。とにかく監督の佐藤肇の趣味の良さを堪能する映画であって、怪奇趣味の同好の士にはまたとない贈り物。でも、出演者を見るとそんな間口の狭い映画ではなくて、主演は同年の日活映画『赤い殺意』のコンビだし、脇役が妙にオールスター。金子信雄渥美清加藤嘉、浜村純、小沢昭一曽我廼家明蝶と大物が顔見世程度のちょい役で登場する。でも渥美清の霊柩車の運転手はかなりの大役で、準主役レベル。

■とにかく主演の西村晃が怪奇映画にはピッタリなんだよ!ということを発見して証明したのが佐藤肇の慧眼で、あの骨ばった長い顔は照明の加減次第で表情が千変万化する映画的な顔立ちであることに尽きる。大映映画ならもっとノワールな映像のルックをこってりと描くところだけど、東映なのでそこは意外とあっさりしていて、フジフィルムらしい淡彩なモノクロ映像だけど、要所要所で西村晃の顔を不気味に照らし出すのが、まずは最高に楽しい。もちろん、春川ますみのグラマラスな姿態にこんな照明を当てても冴えないけど、西村晃の痩けた頬は照明効果だけで怪奇スターに変貌するのだ。しかも、演技的にも様々なバリエーションを繰り出して、山本薩夫の傑作『牡丹燈籠』以上の好演、怪演を見せる。

■なにしろ西村晃はノリノリでクライマックスで主題歌まで歌い出すし、菊池俊輔の楽曲もお馴染みの恐怖音楽に加えてテルミンを駆使した怪奇調を加え、こちらもノリノリ。趣味の映画を、好きな人々が寄ってたかってワイワイ言いながら楽しそうに撮りましたって感じの映画で、趣味性の高さは自主映画レベルだと思うけど、技術は一流だし、演者も一流という、贅沢極まりない、その筋の好事家向け(?)の怪奇スリラー。

■脚本の松木ひろしって、東宝の喜劇映画とか軽快なテレビドラマでの印象が強いけど、なぜかサスペンス映画の名手で、山本迪夫と岸田森の「木の葉の家」を書いて、『血を吸う』シリーズのフォーマットのレールを敷いた人だし、やっぱりこのジャンル好きなんだろうか。

■まあ、それはたまたまかもしれないけど、監督の佐藤肇は完全に好き好んでこんな映画を撮っている人。墓地で西村晃を見送る、通りすがりの少年の胡乱な目元とか、ラストの大木の妖怪の手のような禍々しいシルエットとか、押さえるべき細部はきちんと趣味嗜好のセオリーに沿って外さない。だって、大好きなんだもの!その意味では、後年、日活ロマンポルノで桂千穂と組んで怪奇大ロマン映画を撮ってほしかったなあと、切実に悔やまれる。

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