シナリオ『傷だらけの山河』を解題する

幻の三時間映画

山本薩夫の『傷だらけの山河』はもともと吉村公三郎が監督する予定だったことは有名な逸話で、その前提で新藤兼人が脚本を書いていたが、吉村が急病で山本薩夫にお鉢が回ってきたときに、脚本の改訂を行っている。大映のプロデューサーに断って改定したのだが、プロデューサーがちゃんと新藤兼人に説明しなかったため、拗れたと言われている。改訂するなら言ってくれれば自分で直すのに、勝手に直すのはルール違反だということだろう。
■プロデューサーの伊藤武郎によれば「後半を書き直して、三分の二増やして、アタマのほうを少し削った」そうだが、実際に元々の脚本に対してどんな改訂がなさされたのか。キネマ旬報昭和39年正月特別号に初期シナリオが掲載されている。前篇、後篇と記載されていて、どうもインターミッションが入る三時間映画を想定していたのではないかと思われ、シーン数は241にのぼる。

光子という女

■最も大きな改訂はやはり光子(若尾文子)の登場する部分で、完成した映画では有馬勝平(山村聡)と別れてから秋彦(高橋幸治)の精神病院の場面まで出てこないので、中途半端な退場になるのが、かねてから不思議だったのだが、初期シナリオでは、吉春(川崎敬三)が欧州から帰朝して光子(若尾文子)とよりを戻して暮らしている。この二人の不思議な関係を描写する場面がすべてカットされているのだ。有馬勝平の勲章受章式典にも二人が現れる。自分を金で有馬に売った男と、ある意味、ドライな割り切った関係を修復して生きている。打算的に割り切って生きることに決めた光子(若尾文子)に、そのうえで

226 酒井夫妻のアパート(翌朝)
(略)
光子「純粋だったのは秋彦さん一人ね、有馬勝平に正面から挑戦したのはこの人だけだわ」

といわせることでテーマを明確にしているのだ。既に秋彦(高橋幸治)に対する想いは吹っ切れ、彼の放火事件をこのように論評する光子は、完成した映画よりずっとドライでユニークな人間像となっている。新藤兼人の狙いもそこにあったのだが、完成した映画では中途半端に放擲されている。さらに、妾の子平次郎(伊藤孝雄)も

227 かね子の家
(略)
平次郎「しかしこれは、勇敢ではあるが玉砕主義だな、正面からでは駄目だ。側面からじわじわやらんと、有馬勝平には勝てないんだ」
かね子「だけどお前、なんだか胸がすくじゃないの」

と論評することで、秋彦(高橋幸治)が有馬勝平攻撃の先鋭であることが強調される構成になっている。完成した映画では光子(若尾文子)は秋彦(高橋幸治)の純粋さに心を残している描き方になっていて、精神病院で母と息子の関係を覗き見るだけという、やはり中途半端な描き方になっている。平次郎(伊藤孝雄)の場面は、誤認逮捕で警察に取り調べを受ける場面に変更されていて、エピソードの「結」としては、実際のところ弱い。
■おそらく初期シナリオを読んでいた若尾文子は改訂されたシナリオを読んで少なからず落胆したことだろう。当初のシナリオから比べて光子の比重が大幅に減ってしまったからだ。

その他の女たち

■そして印象が異なるのは、有馬勝平の妻・藤子の描き方で、初期シナリオではハッキリと勝平に反旗を翻している。完成した映画では同じ台詞を言っていても、村瀬幸子が演じたせいもあるかもしれないが中途半端な印象になっている。秋彦(高橋幸治)が無言で精神病院の病室から紙片を落とす場面は、元のシナリオには無く、改訂によって生まれた場面だが、絶望的な断絶をよく表現して、ここは成功している場面だ。
■さらに、完成版の映画では最後まで弱い女、妾の民子(坪内美詠子)が初期シナリオではちゃんと勝平に反抗する場面がある。しかも、有馬宅に乗り込んで、手切れ金の500万円を返そうとする。シナリオのト書きでは「民子、泣いている。その姿は哀れさを通り越して無知」と表現される女だ。このように、初期シナリオでは、勝平の女たちがすべて勝平に反抗を始めるように構想されていて、それぞれの「結」のエピソードが存在する。

すべては有馬勝平のために

■そしてボリュームは少ないが、ラストも微妙な改変がなされている。映画では取ってつけたような踏切事故が描かれるが、もともとは存在しない。滝山線は無事開通し、再開する学校建設工事に向かう場面で終わっている。このあたりは新藤兼人流のあっさりした幕切れに物足りなさを感じて付け足したものだろうが、成功していない。
■これらの改訂で何が起こったかといえば、光子(若尾文子)と吉春(川崎敬三)の場面をごっそり切ることで上映時間が短縮されている。すべてを描けば、確かに3時間映画になっただろう。その意味では、この改訂作業は長すぎるので縮めてほしいという会社側の意向だった可能性がある。だから脚本家に相談せず、監督側でやってくれて構わないという回答になったのではないか。初期シナリオでは勝平とその女たちの戦いが主眼となっており、それを敬遠した山本薩夫が女たちのエピソードの「結」の部分を省くことで、結果として有馬勝平の事業欲という業病を描いた部分の比重が増えることを狙ったものと思われる。でも、初期シナリオでは周囲の人間たちの反抗も不幸も柳に風で、その事業欲を沸々とたぎらせる場面で終わっている。新藤兼人は次のようにラストシーンを書いていたのだ。

241 野の道
クライスラーが風をきって走る。
勝平の顔から、金色の鋏でテープをきったときの和やかさは消えて、再び、闘志満々とした面構えに変わり、眼は強く、前方をみている。

■だが、山本薩夫は有馬勝平を馬力のある野心的な実業家として野放しにすることは倫理的にできないと考えたのだろう。だから無理やり、前途多難なイメージを挿入して、これまでとそして今後のその被害を強調して映画を終わるのだが、十分な説得力を持ってはいない。ありきたりだが、文字通り鉄道用地開発で切り刻まれた野山や山河の情景をモンタージュして終われば良かったのではないだろうか。

秋彦というアンチテーゼ

■その終幕のアンバランスさは、初期シナリオに描かれた秋彦(高橋幸治)の人間像の捉え方によってもたらされたかもしれない。初期シナリオでは、繊細な神経の持ち主故に狂った青年だが、最後には狂気なりの強い信念を持つに至るという表現になっている。完成した映画では父親に完全に敗北し、病室に引きこもってしまうわけで、これはこれでヤマサツ先生の演出で悲劇が引き立って名場面を生んでいるが、新藤兼人の狙いはそうではなく、狂気の域に達することで父親への強烈な反抗心だけを拠り所に生きる、一種の強さを手に入れた青年として描出することだったのだ。

237 廊下
(略)
秋彦、視線をはずし、何か口のなかで呟きながら、部屋を歩いて廻る。
秋彦「・・・燃やすんだ・・・おやじは、学校をやる資格はない・・・なんべんでも燃やすんだ・・・」

■そして、滝山線の開通祝に向かう勝平と並行して秋彦が描かれることで、秋彦(高橋幸治)の呪いが勝平にべったりと昏くまとわりついている雰囲気を作ろうとしているのだ。秋彦(高橋幸治)を単なる狂人として幽閉させてしまった山本薩夫は脚本の読み込みが甘かったのではないかという気がしてくる脚本なのだ。
■こうして初期シナリオを読んでくると、さすがに新藤兼人の構成力で、完成した映画で謎だった人間関係のアンバランスな部分がちゃんと描きこんであり、それぞれに相応しい結末が用意された、かなり上出来なシナリオであることがわかる。特に、光子(若尾文子)と吉春(川崎敬三)のカップルのドライな腐れ縁や狂気の力で父親を呪詛する秋彦(高橋幸治)の描きこみは非常に興味深いが、確かに山本薩夫の興味を持つ方向性とは不整合だったかもしれない。
■でも、そそもそ大映は本気で三時間映画を作ろうという意志があったのだろうか。新藤兼人にどのようにオーダーしたのだろうか。疑問は尽きない。
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