さようなら、私の内灘。わたしの青春ー五木寛之の『内灘夫人』読みましたぜ

五木寛之の『内灘夫人』を古書で入手していたのですが、やっと読み終えました。結構ボリュームがあったのですが、基本的に新聞連載の風俗小説なので、読み出せばさらさら読めますね。2段組で320頁でした。

■舞台は1968年。小さな広告代理店の社長夫人霧子は内なる空虚さを埋めるため刹那的な火遊びに身を任せる有閑マダムだったが、学生運動の闘志克巳を見かけて激しく惹かれると関係を持ち、金沢旅行に誘う。行き先は内灘海岸であった。
夫の良平は大学生時代に内灘闘争をともに戦ったメンターであり同志だがいまやふたりともかつてのような熱はなく、死んだように生きていた。
克己には杏子という闘争の同士かつ恋人があったが、妊娠が発覚すると闘争方針をめぐって二人の間に溝が生まれる。だが激しい大学紛争中に杏子が死亡すると、すでに闘争から脱落していた克巳は彼女が死んだ大学図書館に放火を試み、失敗する。
良平はかつての闘争の同志から不渡手形を掴まされ、屋敷は狂った家政婦が放火し消失した。二人の学生の姿にかつての自分と夫の姿を重ね合わせていた霧子は、放火未遂事件の犯人として警察に自首した克己を見送ると、すべてを捨てて内灘に戻り、裸一貫から労働者として生き直すことを決意する。
「さようなら、私の内灘。わたしの青春ー」

■かつて燃えたという青春の記憶だけで生きつないでいる抜け殻の私。「過去に美しすぎる青春を持ったものは不幸です。その余りの鮮やかな充実感のために、現在が常に色あせて見えるからです。」そして、抜け殻の身体にもう一度魂を取り戻すためには、その青春をはっきりと葬ることが必要だったというお話で、お話じたいは非常に好物です。

■中年の有閑マダムといっても、まだ30代なかばなので、今の感覚では全然お若いわけですけどね。ただ、この夫婦に子どもがあったりすると、絶賛子育て中の時代なので、かつての青春とか青春の残渣とか浮いたことをいってる余裕はないわけで、そこが有閑マダムの有閑たる所以ですね。じつは内灘闘争中に身ごもって、処置したことで子どもを持てない体になったという設定。最終的な結論も、がつがつ働いて、かつかつで生きている生身の労働者からみれば、舐めんなよ!という話でもある。まあ、それは作者も認識しているだろうけど。

■良平は霧子の堕胎の資金を捻出するために組織のお金に手を付けるし、裁判闘争で闘争方針をめぐって内輪もめが生じて、運動組織を脱落していった。小さな広告代理店の社長になったので、それで世俗的には十分なはずなのに、妻も良平じしんもその現実に充足感を感じることができない。その一方で霧子はテレフォンセックスや乱交パーティにうつつを抜かしているあたりは、いかにも風俗小説だし、その相手の娘が良平の浮気相手だったりして、さすがにご都合主義で安っぽい筋立て。住み込みの家政婦が発狂して屋敷に放火するとか、いかにも昭和らしい雑な展開。

朝鮮戦争反対闘争だった、1952年の三大騒擾事件のうち「吹田事件」「メーデー事件」、当時有名だったらしいけど、今では誰も触れないロープシンの「蒼ざめた馬」などに関する言及があり、特に「蒼ざめた馬」は克巳の心象として長々と引用される。そして、1969年の扇ひろ子の日活映画の主題歌でヒット曲(?)「仁義」、内灘小唄の一節(さすがにネットでも情報がない!)、労働歌「憎しみのるつぼ」などが口ずさまれる。霧子も良平も感極まると、学生運動時代の愛唱歌が口をついて出るというあたりが、リアルでもあり、哀しくもある。二人はかつての内灘での学生運動という祭りの記憶を共有しながら、いまは交わることができないのだ。
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■いくら昭和とはいえ、とにかく筋立てはあまり上出来ではなく、中間小説ともいえず、風俗小説の域を出ないので、今ではすっかり忘れられた小説だけど、内灘闘争を扱った文芸作品という希少性は再評価ができるのではないか。でも、もっと霧子と良平の過去の闘争を巡る具体的な描写、内灘闘争そのものの経緯や成り立ちを含めて叙事詩的に綿密に描かれることを期待したのだけど、そこはホントにさらっとしか語られないのは、正直物足りないなあ。勿体ない。

■エロも含めて風俗的にいかにも映画に向きそうな筋立てなんだけど、とにかく日本映画界の最悪の時代だったので、企画があがってもすんなりとは通らなかったでしょうね。内灘闘争には縁のある日活映画なんかで俎上に乗りそうな気はするけど、倒産寸前だからね。

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