感想
■まあ、何回観ているか忘れましたけど、テレビ放映、ビデオソフト、映画館、DVD等で何度も観てますね。特に、その昔十三の映画館でニュープリント上映を観たのが印象深いですね。フィルム上映の威力を実感した経験です。といっても、当時は映画館でのデジタル上映なんて夢のまた夢でしたけどね。
■今回改めて観ると、主人公の旗本の三男坊、新三郎の青年としての未熟さが非常に感慨深いですね。世の中の仕組みの理不尽さを青年らしい正義感で嫌悪し、自らが巻き込まれることを忌避して、長屋の寺子屋に逼塞する潔癖で無力な青年。世の中を変えようなどとは思わないけど、間違っていると感じる世の中の仕組みに巻き込まれることは避けたいという消極的な退却主義。そこに、武家社会の理不尽さによって武家の出身ながら遊女に落ちた哀れな娘と出逢って、過剰な共感を感じるのは、初な若者にはありがちなこと。いや、若者ならずとも、常に弱いものの立場に寄り添いたいと思う大人は少なくないだろう。(自戒を込めて。)
■でも、その同情は得てして傲慢から来るもので、優位な立場から弱者を見下していることを自覚しなければならない。一見、社会的にか弱い犠牲者に見えるものが、実は邪悪な意図を持っていたり、自覚のないまま悪意を秘めていることは、現実社会ではいくらもあることなのだ。若い新三郎にはそうした世間知が欠けていて、若さと未熟さ故に、武家社会の被害者に過剰に感情移入してしまう。そのことが死を招くということを、老獪な依田義賢は見抜いている。正しく清く弱いものが、封建社会の矛盾によって滅ぼされるという単純な図式劇ではなく、そこには、世の中の、人間心理のもっと複雑怪奇な乱れ模様が寓意として織り込まれている。ということに、久しぶりに観て気づいたが、監督がそこまで正確に意図したかどうかは、正直怪しい。山本薩夫の周囲には、常に共産党員の取り巻きがいたというから、多分社会的弱者は常に正しいという、教条主義のレベルにとどまっていた気がする。
■映像面では、ほとんど完璧な映像美で、大映京都の、太秦近辺で生まれ育った地元の職人のおじさんやおばさんたちが、特に何も具体的に指示しなくても、怪談映画やろ、それにしては結構予算あるらしいやん、わかってるって、こんな画が撮りたいやろ、と各パートは独自に判断して、各々の創意工夫を持ち寄って、現場は淡々と進む。しかも巨匠の山本薩夫が監督なのに、意外と残業は発生しないし、スケジュール通りに撮り終える。(以上、単なる妄想!)
■そして、その結果は世界的に見ても、映画技術の最高峰レベルの撮影技術であり、照明設計である。ガチガチに作り込まれた世界観。映画技術の結晶。撮影所システムの凄さとはこういうこと。よく「映画工場」なんて、言われるけど、いわゆる企業の工場よりも職人個々人の裁量が大きいので、せいぜい町工場って感じかな。太秦は映画の「町工場」だった。
参考
大映京都の怪談映画は映像技術の教科書だと思いますけど、当時の機材は今の映画機材とかなり違うので、同じような味は、なかなか再現できないでしょうね。照明機材も違うし、フィルムの感度や発色も違う。
でも、逆にデジタル技術で当時の大映京都タッチのルックをエミュレートできる気もするがなあ。いや、実際できるよね!
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みんな、牡丹燈籠は大好きですよね!観る方も、作る方も。
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