感想
■スクリーンでもビデオソフトでも何度も観ている本作ですが、あまりに昔すぎて記事が残っていないので、久しぶりに再見してみました。引っ越しの荷物の中にビデオソフトが残っていたのですね。
■もともとは吉村公三郎が撮る予定で新藤兼人が脚本を書いていたのに、吉村が急病のため山本薩夫にお鉢が回ってきた企画。そのため脚本がヤマサツの意に満たず、脚本の改定が必要になり、主人公の強引な事業の進め方や考え方が補強されたらしい。確かに、このお話って、改めて見ると一種の母もの映画の変形で、正妻+妾4人で、それぞれに子がある(若尾文子除く)という設定で、それぞれの子の立場から事業家有馬に対する非難が加えられ、母に対する愛憎が絡みつくのだ。このあたりは確かに新藤兼人の得意そうな部分で、ヤマサツはもっと強欲資本主義の理論や機構を描きこみたいと考えたようだ。
■宮古とく子の証言によれば、メロドラマっぽかったから一旦断ったけど、大映から脚本は変えていいと言われて引き受けたという経緯がある。ただ、ヤマサツ先生は大物脚本家とは直接議論をしない主義で、製作者を介して注文したために、新藤兼人とは揉めたらしい。大映が新藤兼人に断らずに勝手に変えていいと言ったようだ。プロデューサーの伊藤武郎によれば「後半を書き直して、三分の二増やして、アタマのほうを少し削った」そうだが、実際に元々の脚本に対してどんな改定がなさされたのか、興味を引くところだ。
■しかも、本作の主演はなぜかオペラ歌手の藤原義江が決定されており、クラインクインしたが演技に満足がいかず、永田雅一に直訴して、運良くスケジュールが調整できた山村聡に交代して完成させている。素人を主役に使いたいという謎の願望が、どこからどうして湧いてくるのか実に不思議な邦画界と特有の(?)現象だが、黒澤明も『トラ・トラ・トラ』で大失敗を喫しているわけで、一体誰に成算があったのかね。
■しかし完成した映画は実に面白く、観始めると途中で止められない。既に3、4回は観てるのにだ。西北グループ総裁の有馬勝平の豪快な事業理念に感心しつつも呆れ、用地買収や鉄道敷設のあくどいカラクリを詳らかにするあたりはヤマサツ先生ならではの面白さ。この原作ならこういう部分が面白いのだから、これを描かないと観客は納得しないだろ!という読みがヤマサツ先生の大衆性の所以。
■ちなみに有馬勝平のモデルは西武グループ創始者の堤康次郎ですね。おそらく公開当時はそうしたスキャンダラスな話題性も興行価値に寄与したものと思われるけど、今現在、モデル云々を除いて虚心坦懐に観ても、十分すぎるほど面白い。
■一方、正妻+妾の成長した子供たちの反抗が本作のメインテーマで、これを正妻側が北原義郎、船越英二、高橋幸治、妾側が川畑愛光、伊藤孝雄らが熱演する。なかでも父親である山村聡と若尾文子を巡って三角関係になってしまう高橋幸治のメロドラマが本作の中心線となる。物語を腑分けしてゆくと、このエピソードが本作の背骨なのだ。だから、基本的にメロドラマであって、新藤兼人の得意ジャンルであるし、松竹出身のヤマサツ先生だってお手の物なのだ。
■そして、この映画を観ている観客は当然豪腕の大事業家ではなく、その批判者であったり被害者である息子たちに自分自身との親近感を抱くようになっている。自殺者まで出すデパートの立ち退き工作をさせられて神経を病んで精神病院に入院してしまう繊細で小心な高橋幸治は、どう転んでも大事業家にはなれそうもない凡人たるわれわれ自身を映す鏡であって、人を人とも思わない大言壮語を次々に実現してしまう大事業家の強烈な高熱に焼き尽くされる青春の無残さ、その悲劇性が本作のテーマなのだ。ただ、高橋幸治が持ち前の人間離れした個性で完全に演じあげてしまうので、逆に喜劇のように見えてしまうという矛盾は否定できず、本作の評価もそこで分かれる危惧がある。でも、面白さは保証付きなので、ヤマサツ先生は人が悪い。
■短期間しか活躍しなかった川畑愛光という役者も実に面白い個性で、生硬な若者の姿を案外リアルに描いている。これも典型的な生活力の無い、”覇気のない”若者で、大学卒業後は詩を書いて暮らしたいなどと言うダメな奴なのだが、僕は家を出ていくよと弱々しく宣言した夜、今夜は一緒に寝ておくれと、従順な妾である母が擦り寄る場面など、古臭いメロドラマであはあるが、歳をとって今見るとちょっと泣けるものがあるな。このあたりをちゃんと撮ってくれるのもヤマサツ先生の観客への親切心だ。
■一方、簡潔に挿入される用地部長のエピソードがサラリーマン残酷物語で、課長から抜擢されて部長になって頑張ってこいと送り出されたが、家には知的障害のある娘があり、妻と姑は折り合いが悪く、アパート代を工面するために会社の金を私的流用するが、母娘は出奔して無理心中してしまう。経理不正が発覚しそうになると電車に身を投げる。まるでここだけ黒のシリーズのような高松英郎の一人舞台だ。
■ただせっかくの若尾文子があまり生かされず、ドラマの中心にもなっていない。ああ、勿体ない。それに、あのボサボサの変な髪形はなに?
■一応、大映東京の精鋭スタッフを揃えたが、スケジュール的にも厳しかったらしく、画調の乱れが多いのが気になる。若尾文子は基本的にハレーション気味に顔色が白く飛んでいるし、特に白昼のロケーション場面の白っぽさはさすがに安っぽい。小林節雄らしくシャープで黒っぽい質感の場面もあるが、例えば同時期の日活では姫田真佐久のモノクロ撮影が絶品だったし、大映京都の牧浦地志や森田富士郎らの映像作りの密度と安定感にはどうしても劣る。クランクイン前後にゴタゴタした影響で、突貫撮影だったことだろうと推察される。山村聡なんて、無理やり空きスケジュールを作ったわけだろうし。でも山村聡の演技としては明らかに代表作で、これだけの大人物感を演じたのは、後年の丹波哲郎くらいだろう。滝沢修なんて、主役をやらないからね。
■そして、本作の興行的成功と高評価は群像劇に対するヤマサツ先生の自信を深めたし、次なる大作『白い巨塔』の企画を呼び込む運気を招いたわけだ。なにしろ本来は増村保造が撮るはずだった好企画(かつ難企画)が転がり込んできたわけだからね。