- 『怒りの孤島』とはどんな映画か
- この映画の何が問題になったのか?
- 「舵子事件」とは何か?
- 「舵子事件」に関するさまざまな評判と反響
- 『怒りの孤島』を製作した日映という会社
- それでもなんとか観たいのよ!
- 追加情報①
- 追加情報②
- 参考文献
『怒りの孤島』とはどんな映画か
昭和32年に、久松静児監督による『怒りの孤島』という映画が公開されました。脚本は当時乗りに乗っていた女流脚本家の水木洋子のオリジナルですが、この映画は当時話題になったものの、いまではほぼ観ることができない映画なのです。
なぜなら、実際に起った児童虐待死事件を扱った半実録映画で、公開後に様々な波紋を呼ぶことになった数奇な映画だからです。
この映画の何が問題になったのか?
この映画はいわゆる「舵子事件」に取材して、昭和29年に水木洋子が『舵子』としてラジオドラマ化したものを後に日映という独立プロダクションが映画化したものです。
文部省特選映画として公開され、その後には小学校の講堂で上映されたりしたらしく、観たことのある人は意外に多いらしいのですが、その際にあまりに酷い児童虐待の内容に子どもたちの多くが恐怖を覚え、心に暗い爪痕を残したそうです。
実際、このポスターの強烈な絵柄だけでなんとも言えず、十分に恐怖です。。。
「舵子事件」とは何か?
「舵子事件」とは、昭和23年に最初に発覚した、瀬戸内海の離島情島(山口県)で起こった児童監禁死亡事件のことです。
平坦地が少なく、漁業が生業であった情島では、村の世帯は限られていることから、漁業に子どもの労働力に頼る必要があり、いろいろな出自の子ども(戦災孤児、児童福祉施設の子ども)たちが半ば売られるようにして本土から連れてこられたそうです。
当地は優良な漁場があり、桜鯛の一本釣りが盛んだったので、船の櫓をとって舵を安定させる役目が必要でした。それが舵子のしごとですが、波穏やかな瀬戸内海とはいえ漁場付近は急流があり、舵子は重労働でした。
耐えかねて逃げ出そうとした少年が雇い主の住民に捕まって、魚の餌を生かしておく箱(いけす)の中に監禁され、挙げ句に餓死したという事件が全国に報道されました。
「殺されても帰らぬ 脱走少年が語る情島の奴れい日記~改まらない差別待遇~」などと報じられたり、「アサヒグラフ」に写真付きで載ったりしたことから、当時センセーショナルな話題となったそうです。
しかも、一旦終息したと思われた後も、昭和26年になって再び舵子5人が脱走して児童相談所に保護され、相変わらず奴隷労働が続いていたことが明るみに出ます。
水木洋子もそれを知って理不尽に憤った一人で、正義感から独自に取材を重ね、昭和29年に3回シリーズでラジオドラマ化し、後に実録映画のシナリオとしたものです。働き盛りの当時の水木洋子はかなりの力を入れていたことがわかっています。
確かに、断片的に当時の記事や資料を読む限り、今の常識では児童虐待に間違いはないでしょう。ただ、舵子という島特有の児童労働制度については、歴史的経緯や敗戦後間もない時代背景などから割り引いて考える必要があるでしょう。この舵子労働じたいは船の動力が人力からモーターに置き換わるまで、大正から昭和30年ころまで見られたそうです。
「舵子事件」に関するさまざまな評判と反響
この映画や情島の舵子労働の歴史については、一方的に本土の都会の目線で児童労働を奴隷労働として断罪するという姿勢について、逆に地方差別ではないかという反論も起こります。せっかく本土から来た有識者たちに対して島民は素朴に、率直に話して聞かせたのに、映画の描写としては人身売買の人非人の島として描かれたらしく、当然島の漁民は反発します。一部の明らかに行き過ぎた、逸脱した異常な事件をもって島の伝統的な制度全体を断罪するなという考え方で、一理あるとは言えるでしょう。
日本がまだ貧しかった時代、舵子に限らず、児童人身売買・児童強制労働は、地方にはいわば伝統的・普遍的に存在していたからです。
『怒りの孤島』を製作した日映という会社
一方、この映画を製作した日映という製作会社は、大映の専務だった曽我正史という人が電鉄会社の出資を受けて新たな邦画メジャーを立ち上げようとしたクーデター計画に失敗し、小規模な独立プロダクションとして設立されたといういわくつきの製作会社で、本作を初回作品として、次に佐分利信監督の『悪徳』の二作だけを製作したのちに解消してしまいました。(ちなみに、曽我正史は後に松竹系の歌舞伎座プロに役員として迎えられており、日映の機材等も承継されたそうです)
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やがて映画は上映の機会も失い、残っていた上映用プリントも物理的に消耗して、いまでは実質的にほぼ消滅してしまったというわけです。東京国立近代美術館フィルムセンターにも上映プリントは収蔵されていないようです。
それでもなんとか観たいのよ!
なにしろ水木洋子の全盛期の仕事なのでぜひ観たいわけです。監督が久松静児なのでエグい演出はないでしょうし、決して後味の悪い映画にする意図はなかったようです。そのための総天然色ワイドによる風光明媚なロケ撮影だったようです。
そもそも昭和32年の独立プロ作品なのに、モノクロスタンダードじゃなくて、カラーワイド(日映スコープ総天然色)ですから、それだけで異様に大作仕様なのです。東映のカラー&シネマスコープ第一作が同年の4月に公開されたばかりですから、ちょっと異常とも言えるハイスペックなのです。そこだけ取っても映画史的には謎を含みます。電鉄会社を巻き込んでの日映設立クーデターは失敗したものの、本気で邦画メジャーに対抗するつもりで撮影機材だけは最新型の一式を先走って発注してしまっていたのでしょうか?まるで円谷特技プロのオプチカル・プリンター事件じゃないですか!
しかも主演の少年が東宝映画でおなじみの鈴木和夫で、唯一の主演作です。東宝では脇役だったわけですが、かなりの性格俳優ですから、演技的には期待できます。
なお、「シネマ△トライアングルがお贈りする「発掘!幻の映画」シリーズ」として2010年にかろうじて残存していた16mmプリントを修復して上映されたことがあるようです。修復とはいえ、リマスターではないので、真っ赤に褪色して雨の降るプリントだったようです。
どこかからオリジナルネガが発見される奇跡を、映画の神様に祈りたい気分なのです。
追加情報①
『怒りの孤島』の撮影に参加したスクリプターの中尾壽美子によれば、監督の久松静児が水木の脚本をほとんど書き直したとのこと。当然、試写を見た水木洋子は「あたしの台詞一個も使ってない」と立腹したそうです。
追加情報②
もともとは『海は知っていた』という仮題で準備され、久松監督で撮入したものの、日映の独立プロとしての制作環境の厳しさから、悠長に天気待ちなどもしておられず、天候不順で撮りきれなかった部分等を脚本の改変と編集で取り繕ったらしく、ラストも児童憲章を掲げて、脚本とは異なる取って付けたような結末になってしまったらしい。上記の中尾壽美子の証言も、その周辺事情を物語るものだろう。
参考文献
mukasieiga.exblog.jp
seesaawiki.jp
吉村昭が舵子事件に取材した『鯛の島』という短編小説を書いています。そもそも丁稚奉公であった島の舵子制度を、奴隷労働、児童虐待として糾弾したのは進駐軍の民主化政策のアピールのためで、その槍玉に挙げられたのだという観測で書かれています。小説なので、そのあたりは完全に推測なのか、とはいえ吉村昭なので取材で裏が取れているのか、詳細は不明。
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