宇宙からやって来た”倒木更新”の怪物!『モノリスの怪物~宇宙からの脅威~』

基本情報

The Monolith Monsters ★★★☆
1957 スタンダードサイズ 77分 @DVD

あらすじ

テキサス州サンアンジェロの片田舎の砂漠に散らばった謎の鉱物を拾った者たちが石化して死亡する怪事件が発生。鉱物は隕石の破片で、人体を含むあらゆるものからシリコンを吸収し、水に反応して成長することを突き止めるが、まさにそのとき砂漠に大雨が。鉱物は成長して巨大な黒い石柱となり、自重で崩落すると、その破片が成長を続け、ついに田舎町に迫る。おっとり刀で駆けつけた地元の地質学者や科学者がとりあえず身近な材料を駆使して黒い鉱物の弱点を探るが。。。

感想

■黄金の50年代にアメリカで量産された低予算のB級SF映画の一本ですが、これはななか趣深い良作。モノリスの怪物というアイディアが絶品で、石が成長して自重で崩落しながら移動して、その陣地を拡大していくというアイディアの一本勝負。他に類を見ないワン・アイディア映画で、今見ても案外古くない。もちろん、低予算なので、美術セットは最小限度だし、モノクロ撮影に特に凝った風もなく、淡々と普通に撮りましたって感じだけど、好意的に見ればドキュメンタリー的に見えないこともない。

■当然ドラマ的な要素はほぼゼロで、怪事件とその拡大と対策だけが描かれるが、ちゃんとサスペンスを生み出しているのが、何と言っても偉いところ。このジャンルの下手な映画だとそこで失敗しがちだが、本作の脚本と演出は成功している。監督はジョン・シャーウッドという人で、もっぱら職業助監督って感じのキャリアの映画職人。

■巨大なモノリスの怪物の活動を終盤まで見せなかったのも大成功で、クライマックスには待ちに待った大特撮が展開する。そのクオリティとボリュームも必要十分で、オーソドックスで豪快なミニチュアワークを堪能できる。随所に挿入される作画合成の精度の高さも魅力的で、モノクロスタンダードは解像度が高く、レンズの歪みも少ないので、パンフォーカスの合成がキレイなこと。なにしろ特撮はクリフォード・スタインだからね。

■ラストはアレをアレすべく大変なスペクタクルになるんですが、私有財産を勝手にアレすることはできないぞとか、町長の許可がまだ出ないぞといった世俗的な限界からくるサスペンスを乗っけるのも上手いですね。普通この手の映画ならラストで取って付けたような深遠なテーマや振り返りが語られる事が多いけど、本作はそんなもの一切なし。知事は現場をこの目で見ないと許可できないと言い、現場の役人や市民(田舎だから軍隊なんてそもそも無い!)の機転で事件が片付いてから、知事の許可がやっと届く。行政は忘れた頃にやってくる。まさに、コロナ禍のアベノマスクそのもの!凄いタイムリーな映画だな!SF映画凄い。

参考

■今になって知りましたが、本国では高画質なブルーレイが発売されています。しかも、画角は1:1.85のアメリカン・ヴィスタサイズじゃないですか!見事な高画質らしいぞ。悔しいなあ。

■と思ったら、ヴィスタサイズ版はスタンダード版をトリミングしたものと判明。もともと撮影はスタンダード、劇場上映時に上下にマスクをかけてヴィスタサイズで上映するというスタイルだった可能性がある。ブルーレイはそうした裏付けがあって、あえてヴィスタで収録しているのだろう。そうなるとスタンダードサイズ版も貴重だなあ。
www.amazon.com

■この映画、かなり編集でバッサリ切られたフシがあり、そもそも主人公の職業が明らかでない。普通は冒頭に紹介シーンがあるのだが。背景に映る事務所の看板から役所の出張所のようだけど、地質学が専門らしく、やってる仕事は地質調査にも見える。ちなみに、トップに掲げた画像は実在する合成カットだが、ほんの一瞬しか映らないのだ。本邦のスタンダード版DVDではキャストの足元までちゃんと写ってます。

【コロナ禍巣篭もり企画①】旧HP記事を大量追加中!

■コロナ禍の巣篭もりが続くおかげで時間の余裕ができました。
■かねてより気になっていた、旧HPに公開していた記事のなかから、ぜひこの映画は紹介しておかないといけないという気になる作品、われながらよく書けているなあ、参考になるなあと思われる記事をサルベージして公開することにしました。年代的には2000年以降の数年間くらいが対象となります。はや20年の時間が経過してしまいましたが、読み返してみても割と記憶に残っている記事もあれば、すっかり忘れているものもありますね。
■とりあえずは当時よく観ていた大映京都、増村保造山本薩夫成瀬巳喜男などを集中的に投入します。ずっと気になっている、伊藤大輔の『反逆児』とか『元禄美少年記』、内田吐夢の『妖刀物語 花の吉原百人斬り』などの時代劇の超傑作の記事がないんですね。一体、いつ観たんだろう。完全に20世紀の話だったようだな。『反逆児』なんて何度も観てるのに記事がない。熊井啓の『日本列島』も記事がないぞ。おかしいなあ。山本薩夫の『白い巨塔』『傷だらけの山河』も何度も観てるお気に入りなのに、記事がない。。。
にっかつロマンポルノとか石井輝男のエログロ時代劇なんかもこっそり載せようかと思いますが、この時代、ちょっと気が引けるところがありますね。辛うじて大映の秘録シリーズは割と真面目に観ていて思い入れもあるので、徐々に更新しますよ。でも何故か肝心の森一生の『秘録おんな蔵』の記事がないんだなあ。
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp

ボーダーライン少女の危険な誘惑!『若い人』

基本情報

若い人 ★★☆
1962 スコープサイズ 90分 @DVD
原作:石坂洋次郎 脚本:三木克巳 撮影:萩原憲治 照明:藤林甲 美術:佐谷晃能 音楽:池田正義 監督:西河克己

感想

■おなじみ石坂洋次郎の原作による明朗学園青春映画。と思いきや、なかな一筋縄では行かない危険な映画。映画自体は、いつもの三木&西河コンビらしい軽妙な喜劇映画として描かれるのだが、なにしろ吉永小百合が演じる江波恵子という娘がなかなかの難物で。。。

■長崎の名門私立女子高を舞台に、私生児の恵子(小百合)が数学教師間崎(裕次郎)に思いを寄せていることを知った橋本先生(ルリ子)が問題視する中、修学旅行中に間崎と恵子が急接近、その後、恵子が妊娠したという噂が広まり。。。というお話なんだけど、問題は恵子という女子高生の描き方にある。あきらかに境界性パーソナリティ障害の娘として描かれているんだね。

■映画の構成としては、大人に興味と反発を抱き、男を性的に翻弄する小悪魔的な危うい少女として、恵子をコケティッシュに描こうとしていて、それは恵子の個人的な性格的な問題なのかと思いきや、クライマックスでその母(三浦充子)の自堕落過ぎる生き方や性格が延々と映し出され、ああ、この母親のだらしなさ、家庭の不在が、恵子のこうした性格的な偏りを生んだ原因なんだと主人公が納得するという話になっている。そのうえで、ラストに先生を橋本先生にあげると恵子に言わせて、ドラマは唐突に終わるのだが、映画としては明らかに尻切れトンボだ。正直、三木克巳井手俊郎)らしくない脚本だと思う。

■実際のところ、戦前に書かれた原作小説はこんなところで終わってはおらず、間崎と恵子は肉体関係を持ってしまうし、橋本先生は非合法活動の廉で警察に検挙されるし、間崎は図に乗った恵子にいいように翻弄されて、結局は橋本先生のところ行けば、と捨てられる。このように、原作小説は映画よりももっとストレートにボーダーラインの症例を描きこんでいるし、どう考えてもシリアスで怖いお話なのだ。

■この原作小説は戦前には豊田四郎によって、昭和27年にも市川崑によって映画化されていて、これはもっと原作小説に忠実な陰鬱な映画だったらしい。江波恵子を島崎雪子が演じているので、観てみたいのだが、それでも最後には恵子が自分の非を認識して改心して、間崎を橋本先生のもとに送り出すというお話になっていたようだ。本作もそのあたりは踏襲しているのだが、全く説得力がないのだなあ。

■そもそも、脚本家井手俊郎といえば、成瀬巳喜男『めし』とか森谷司郎の『放課後』とかで、年上の男を魅惑し翻弄する若い娘の姿を好んで描いてきた人で、本作もその系譜に属するだろう。ただ、本作の恵子は危険な年頃の少女のリリシズムを描く映画ではなく、一見そう見えた娘の背景に大人の自堕落が凝視され、恵子がそうなるのも仕方ないよね、生育環境が悪すぎるよね、という見せ方になっているのが不徹底で、明朗青春映画として仕立て直すという企画開発の意図はわかるもの、原作小説の翻案としてはいただけない。本来は喜劇ではなく、シリアスなメロドラマとして企画開発すべき素材だと思うがなあ。

■ただ、喜劇映画としては非常に秀逸で、間崎先生の下宿に恵子と橋本先生が訪ねてくる場面のオーソドックなコメディ演出は相変わらず見事だし(いきなり革靴をプレゼントに持ってくる母娘の怖さも!)、お話には絡まない完全にコメディリリーフとして登場する殿山泰司の件(エロい探偵小説を声に出して読んでいるオヤジ。)とか、よりによってハゲで笑わせる小沢昭一も最高に可笑しい。このあたりの冴え方は、間違いなく三木・西河コンビの名人芸なんだけどね。

■でも、間崎先生にいったん奴隷解放宣言を出した後、雨の突堤にひとり立つ恵子は、このあとボーダーライン少女らしく自殺騒ぎを起こすに決まっていると予想され、ちっとも終わった感が無いし、結局は間崎が橋本先生に愛想を尽かされ、生徒との淫行を咎められて懲戒処分を受け、一人寂しく学校を去る未来しか見えないのだ。。。
www.nikkatsu.com


参考

なんと12年前に市川崑版を観ていましたとさ!我ながらビックリ。完璧に忘れていた。。。
maricozy.hatenablog.jp
いわゆるひとつのこうした事件が実際に発生しており、学校の教員と生徒・学生、保護者の間では微妙に難しい関係が生じることがあります。学校側の管理体制は基本的にことなかれ主義なので、特異な人物と関わってしまった場合、その教師個人をスケープゴートにして詰腹を切らせたりしがちなので、要注意。人生、至るところに落とし穴が潜んでいる。 
maricozy.hatenablog.jp

ママは真美の敵よ!今日も小百合がブチ切れる『泥だらけの純情』

基本情報

泥だらけの純情 ★★★
1963 スコープサイズ 91分 @DVD
企画:大塚和 原作:藤原審爾 脚本:馬場当 撮影:山崎善弘 照明:高島正博 美術:大鶴泰弘 音楽:黛敏郎 特殊技術:金田啓治 監督:中平康

感想

■たまたま外交官令嬢の危機を救ったチンピラは令嬢と身分違いの恋に身を委ねるが、おかげで組での評判を落とし、兄貴分に諭されて麻薬取引に対する警察の捜査の手を緩めるため自首することを納得するが、、、

■日活純愛映画+ヤクザ映画という、企画意図は十分に斬新だろう。ちょうどいい原作小説がおあつらえ向きに存在したのも良かった。映画としては上出来の部類で、リマスターも綺麗で見応えがある。ただ、終幕の心中の顛末に説得力がなく、せっかくそれまでいい感じだったのに、かなり惜しい。

滝沢修がヤクザの親分の役で1シーンだけ登場するのも驚いたな。ホントにありきあたりの脇役なので。一方、塚田組の親分は平田未喜三という人が演じて、不気味な存在感があるのだが、当時千葉県のほうで町長をやってた人らしい。当時の民芸の若手俳優だった平田大三郎の父らしいが、素人とは思えない貫禄です。

■その組の幹部が小池朝雄で、この映画での一番の設け役。浜田光夫のチンピラを弟分として可愛がりながらも、組のしつけは厳しく教え込む、懐の深い幹部。なにしろ『夜霧のブルース』でも同じような役柄をやっているから、いつ陰険に豹変するかと安心して観ていられないのだが、本作ではヤクザ組織の掟をシニカルに見ることのできる醒めた目を持つ男である。身分違いの恋のドラマを地に足のついたものにしているのは、この分別盛りの兄貴分の人間味だ。

浜田光夫のチンピラぶりは実に可愛いのだが、ちゃんと情婦がいて、この女が脇毛抜いてちょうだいって言いながら脇毛がドアップになるという凄いシーンがある。星ナオミという、当時の日活映画ではお色気担当の脇役だった女優が演じているが、結構大きな役なので本来ならもう少し格上の女優が演じるところだが、さすがに脇毛アップは嫌がったのだろう。

■お嬢さんと別れて、警察に自首してヤクザとして出直す決心をしたのに小百合がねぐらに訪ねてくると二人で逃避行してしまうまでは上出来なんだけど、その後追い詰められて自殺に至るあたりにの心理描写に工夫が足りないし、そもそも尺が足りない。おまけに、心中後の描写も葬列の対比だけでは、テーマが浮かび上がらない。せっかくの兄貴分の小池朝雄をもっ活用すべきだが、泣かせるだけでは足りない。

■本作の小百合はちょっとステレオタイプな役柄で、あまり旨味がないのだが、せっかく連れてきた光夫を、あんな人の来るところじゃありません、帰ってもらいなさいと細川ちか子(!)演じる母親に言われると、

「ママ!ママは、真美の敵よ!」
(※映画本編より再録)

といってブチ切れるのが本作のクライマックスで、いつもの小百合テイストで見せ場。結構、この時期の小百合は心理的な沸点が低くて、不合理や理不尽に対してよくブチ切れますからね。吉永小百合って、意外にもそういう直情型のキャラクターとして人気があったんですね。

■というわけで、非常によくできた娯楽映画ですが、ラストのあたりの身分の差に対するツッコミが不足で、少々残念な映画でした。ひょっとすると元々の脚本ではそのあたりが書き込まれていたのではと思わないでもない。外交官家庭の裕福ぶりもあまりリアルではないし、チンピラの実家のリアルな貧しさも描かれない。まあ、そこは日活リアル路線に任せるのが賢明という判断だろうか。

■さて、本作の白眉は、小池朝雄が光夫がブタ箱に入っている間に小百合からアパートに届いていた手紙を敢えて読ませずに燃やしながら、身分違いの恋を思い切らせようと光夫のことを思いやって諌める台詞だろう。

アメリカの白の女はニグロとは間違っても寝ねえって話、知ってるか?何よりも体臭が違うからだ。タクアン生っかじりにしてる奴とセロリに塩ふって喰ってる奴とは、体の臭いもハッキリ違うだろうによ…」
(※映画本編より再録)

大人である小池朝雄(多分インテリヤクザ)はこの現実を、頭では善かれとは思っていないけど、そのまま受け入れる。若い光夫と小百合はその理不尽が許せず、あるいは理不尽を糺すすべを知らないから、怒りを外に向けるのではなく、怒りを滅するために自らを滅ぼしてしまう。そのあたりの若さの限界と悲劇の構図をもっと切実に示せないと傑作に届かないわな。同じ日活の純愛映画でも例えば『愛と死の記録』ではそのあたりが成功していたからね。


参考

▶アマプラで見放題ですよ!

▶こちらも小池朝雄の傑作。この頃は、まだ端正な”人でなし”だった。こののち、東映(京都)に出始めるとすっかり”変態”になってしまう。
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp
www.nikkatsu.com
maricozy.hatenablog.jp

石原プロの倉庫から発掘された幻の事故物件!『愛の化石』

愛の化石 [DVD]

愛の化石 [DVD]

  • 発売日: 2016/05/18
  • メディア: DVD

基本情報

愛の化石 ★
1970 スコープサイズ 82分 @amazonプライム・ビデオ
脚本:岡本愛彦 、鈴木岬一 撮影:奥村祐治 照明:五十畑憲一 美術:山下宏 音楽:三木たかし 監督:岡本愛彦

感想

■これなぜかアマゾンプライムビデオで見放題なんですよ。しかも製作は石原プロモーションで、配給が日活。浅丘ルリ子の名曲「愛の化石」は前年の大ヒット曲で、この映画はヒット曲の映画化企画だったらしい。1970年は、まだ日活がロマンポルノに移行せず、大映との共同配給も開始前という時期だろうが、田宮二郎は既に大映を離れていたようだ。しかも、渚まゆみがお色気要員ではなく大きな役で登場することからも、実質的には大映との協賛が進んでいたようだ。
■とにかくお話は無いに等しいので、梗概も書けないし、何も感想も浮かばないという完全無欠の事故物件映画。なんでこうなった?という疑問しか浮かばない。ファッショナブルなメロドラマという狙いだろうが、予算も少ないし、そもそも脚本が素人レベル。不倫メロドラマなんて、いくらでも面白くできるだろうに、そもそも不倫相手の碧川部長は一切姿を見せないし、ルリ子が台詞で説明するだけ。ひょっとして裕次郎が碧川として特別出演するのかと期待したが、そんなサービスもなし。
渚まゆみに至っては、安保闘争の元闘士で出版社の編集という役どころで、冗談にしてもひどい。特に後年の東映実録映画のイメージが大きくて、大概派手なメイクでやさぐれてる印象しかないのだが、本作ではナチュラルな演技で悪くない。もう少し演技上手かったらいいんだけど。
■それこそプロの脚本家に依頼して、蔵原惟繕にでも撮らせれば普通のオシャレなメロドラマになったはずだが、誰が岡本愛彦を連れてきたのか。ひょっとしてルリ子本人だろうか。しかも、記録によれば99分という記載がある本編が、アマゾンプライムビデオではたった82分しかないのですよ。正直なところ82分でも拷問のように冗長で、しかも明らかに尺を水増ししているシーンがいくつかあるという代物。時代を超越して、観るものに目眩を起こさせる、一種のドラッグ映画なのか?

愛の化石

愛の化石

  • 発売日: 2017/12/28
  • メディア: Prime Video

シナリオ『愛と死の記録』を解題する

■運良く『年鑑代表シナリオ集’66』が入手できたので、『愛と死の記録』のシナリオを読むことができた。まず、このシナリオでは、おそらく2時間近い上映時間が想定されていたようだ。『愛と死をみつめて』が118分あったわけだから、当然のことで、しかも『愛と死の記録』は実質的に日活というよりも劇団民藝が中心となって企画開発が行われたようで、シナリオを読む限り、たしかに社会派映画として力が入っている。脚本を書いている大橋喜一は劇団民藝の座付き劇作家で、映画は本業ではない。小林吉男は劇団民藝の演出部に所属したらしく、日活映画でも助監督や美術を担当している。そして、広島平和資料館に本作品の取材ノートやロケハン資料を寄贈している。中には企画案や初期台本も含まれているらしい。

■そして、予想したよりもずっと多くの場面が撮影前に割愛されたか、撮影後にカットされている。ことに大きな変更は宇野重吉の場面だ。原爆で両親や兄弟を亡くして孤児となった渡哲也を養育した育成院の院長で、脚本上は「恩師」として表記される。『年鑑代表シナリオ集’66』でも配役に載っているし、当時のキネ旬にも同じ記述があるらしいので、一旦配役として発表されたものだろう。ただし、登場場面は原爆症を発症して苦しむ渡の回想イメージの中だけだが、完成した映画では完全に削除されている。そして、この映画とシナリオの大きな相違点、削除場面は、主にストレートに原爆被害の残酷さを表現する場面に集中している。そこにこそ、劇団民藝主導のシナリオ作りの色合いが濃厚に出ているのだが。

■しかし、完成した映画にはそうした直截に原爆の悲惨さを告発したり糾弾するセリフは残っていない。それらはほぼ完全に取り除かれ、当時の広島に生きる市民たちの間の被爆者差別、結婚差別の実態と実在した悲劇の方に焦点を絞っている。そして、シナリオを読む限り、この改変は正解であったと感じる。映画は社会派映画よりも純愛映画に身を寄せて尺は短くなったが、削ぎ落とされた、原爆や原爆を落とした者への直截な怒りが、吉永小百合の表情に沈潜して心に澱を残することに成功しているからだ。

■このような削除は誰の判断で行われたのか、監督の演出上の判断なのか、日活上層部からの圧力なのか、あるいは違うルートからの圧力なのか、単に上映時間の尺合わせの措置だったのか、非常に興味深いテーマだ。なぜなら吉永小百合じしんが日活の上層部からケロイドなどの場面をカットするように言われて不本意な結果になったと述懐しているからだ。では監督じしんは当時何と発言しているのか、大いに気になるところだが、そこは今後の研究に委ねたい。実際、かなりいろんなやり取りがあったと想像されるのだが、当時のキネ旬映画芸術や映画評論などに発言が残っていないだろうか。


疑問①主人公はどこに住んでいたのか?

■主人公の和江は実際どこに住んでいたのか?これはこの映画のテーマに係る大きな問題である。シナリオと映画の完成版を読み合わせるとこれは明確になる。シナリオでは「相生橋」のたもとと言っているが、映画では「三篠橋」のたもとと変更されている。「三篠橋」の方が北に位置している。どちらにしても、和江の住所は戦後基町の旧太田川沿いに発生した木造バラックが密集する「原爆スラム」と呼ばれた一角であることは間違いない。「三篠橋」であれば、「原爆スラム」の北辺に位置することになる。この変更は実際のロケ交渉の際の諸事情で「相生橋」付近の相生通りが使用できず、もっと北の町並みでロケが許可されたという経緯によるものではないかと想像する。実際、ラストの救急車が橋を渡ってすぐに右折して路地に入る場面は「三篠橋」付近でロケされたものと思われる。

■では和江は「原爆スラム」で生まれ育ったのか?これは映画にも残っているが、生まれたのは広島市内ではなくもっと山の方の西条(今は酒蔵の多い町として有名らしい)だと言っている。だから、生後に一家で基町の不法占拠地域に流入しているのだ。シナリオでそのあたりの経緯がなんとなく伺われるのが、父親の存在。映画では完全にオミットされているが、シナリオではちゃんと生きていて、ただし病気の後遺症で言葉が不自由で酒を禁じられている。つまり、戦後何年か経った頃に父親の病気で仕事を失い、生活に困窮して「原爆スラム」に移り住んだのだ。「原爆スラム」の中には当然被爆者が多くの割合で住んでいるが、彼らの一家は原爆の被害を直接は受けていないため、隣人でありながら被爆者に対する忌避感がある。

■そのことをよく示すのが兄と義姉の存在で、兄は隣家の娘との縁談話を被爆者だからという理由で断った過去がある。映画ではあまり具体的に語られないが、シナリオでは隣家の娘はそのために(そのためだけではないかもしれないが)二度自殺を図ったと語られる。完成版で、兄は

「恋じゃの愛じゃのいうて、もしお前が片輪の子どもでも産んでみい、どこへも訴え出るところはありゃせんので」

と和江に強く諭すが、シナリオでは

「(前略)もしもお前が片輪になってみい、お前を好きになる男はまずおるまい(後略)」

となっていて、この修正は映画のテーマである放射線障害が遺伝するかもしれないことに対する恐怖感を率直に示した改変で、成功している。兄の言動に当時の市民の価値観や差別意識を的確に織り込んでいる。シナリオで影の薄かった父親を割愛して、この一家の実質的な家長が兄であることを明確にしている。

■そして、この兄の人物造形は映画のラストの変更にも繋がっていて、演出家の視点としては首尾一貫している。実はシナリオでは中尾彬と浜川智子のカップルの存在が大きくて、渡と吉永のカップルと対比構図となっている。ラストシーンは以下の通りだ。

144 繁華街
  広島の空と川---
  人ごみの中を、藤井とふみ子、前へ歩いてくる。
  涙で洗われたようなふみ子の顔。
藤井「(怒りにみちて)チクショウ!・・・チクショウ!」

つまり中尾彬の呟きで終わっている。シナリオでは全体に怒りの要素が強くて、完成した映画とのもっと大きな印象の違いはそこにある。吉永、渡のカップルの代わりに、生き残った中尾・浜川のカップルの姿が、彼らが理不尽に対する怒りを内向するのではなく、はっきりと表明すべきだったことを示している。そして、中尾・浜川のカップルは平凡な一般観客の代表として登場するのだ。

■ところが、完成した映画では中尾・浜川カップルの登場するラストシーン#144はカットされ、#143の後追い自殺事件を報じる新聞記事で終わっている。だから、登場人物として最後に提示されるのは妹の不意な自死に取りすがる兄の姿なのだ。しかし、シナリオではその場面#142は、中尾・浜川カップル、佐野浅夫まで駆けつけているのに、兄の姿は描かれていない。つまり実質的なラストシーンはかなり大きく改変されている。シナリオでは兄も弟も勤めや学校で不在のまま進行するところを、映画では兄の悲痛な姿と学校から姉が最期に贈った自転車で帰宅した弟が救急車に追いすがる姿が姫田真左久の秀逸なキャメラによって最も感動的に撮られている。

■蔵原監督はシナリオの中から、はっきりと兄のドラマ性と悲劇性に着目して、その存在を強調している。妹の将来の幸福のためと信じて、敢えて世間の視線を代弁する形で、きつく忠告もしたわけだが、その無意識の差別性と偏見が妹を自死に追いやった”罪”であることに深い悲劇性を見出している。後で触れるが、シナリオでは”罪”に対する怒りがもっと明確に外に向けられていて、あきらかな政治性が意図されている。ところが、完成した映画では相当なシーンをカットすることで、被爆者への、被爆者と関わることへの、差別や偏見が孕む”罪”を、悲劇として描き出す。


疑問②宇野重吉はどこに登場したのか?

■一旦製作発表では出演が予定されたが、少なくとも完成した映画には登場しない宇野重吉の存在。一体どんな役で登場する予定だったのか。シナリオでは「恩師 老人・戦災児育成所長」と表記されている。そして、映画の第二幕の終盤、渡が原爆症を発症して嵐の夜に病室で夢を見る。シーン#106が宇野重吉の初登場シーンだ。渡は「おじいちゃん!」と呼びかける。シナリオではかなり長いシーンになっているので、一部だけ抜粋してみよう。

106 病室(夜)
(前略)
幸雄「おじいちゃん!残念じゃ!・・・」
恩師「忘るなよ」
幸雄「忘れとらん」
恩師「(仏教的執念をあらわした形相で)
 原爆を忘るな・・・
 父母を殺し、いまなお何万の人に、地獄の苦しみを残しつづける・・・
 原爆の罪・・・
 これをなしたる者を忘れるな
 それを忘れて平和はない
 それを忘れての平和は
 にせものの平和じゃ」
ーーーこれらの一部分に篠田正枝さんの経文を読む声が、とぎれとぎれに入る。
ーーー祭をあらわすはやし
ーーージャズ、
ーーー花火の音。
(後略)

■そしてこの後に、被爆直後の記録フィルムや平和大会の乱闘(1959年の右翼乱入事件だろうか)などもモンタージュされる構成となっており、完成した映画とはかなりタッチの異なるストレートな主張がここに盛られていることが分かる。「原爆の罪・・・これをなしたる者を忘れるな」と明確にアメリカに対する怒りの抗議を表明している。おそらく独立プロダクションの映画であればそのまま残っただろうが、さすがに日活の純愛映画としてはふさわしくないという判断で切られたものだろう。実際、夢のシーンに唐突に宇野重吉を登場させても、木に竹を接いだようにしか見えず、せっかくの主張がご都合主義に見えなくもないので、その判断はあながち間違いとも言えない気がするのだ。

■おそらく、この戦災児育成所の所長にはモデルがあるのだろう。本来なら、和江が直接会いにいったりするところだが、モデルとなった実在の人物も当時既に故人だったことから、成仏しながらも原爆に対する怒りだけは解けない精神的な存在として描くという方針になったものだろうと想像する。そこから「仏教的執念」という矛盾したト書きが書かれたのだろう。・・・と、邪推してみたのだが、#117の渡の絶命する場面で病室に恩師が当たり前のように登場しているので、このあたりはシナリオ時点で、実際のところ未整理な印象だ!

■なお、上記中の「篠田正枝」となっているのは「正田篠枝」の誤記だろう。正田は『さんげ』が有名な原爆歌人で、映画の前年、乳がん白血病で亡くなっている。(このたび初めて知りました)監督が蔵原惟繕だからということなのか、かなり前衛的なモンタージュが指定されているのも意外だった。


疑問③滝沢修の台詞が途切れているのは何故か?

■これは単純な理由で、シナリオでは原爆病院院長の場面が長すぎるからです!原爆症やその障害の遺伝についての当時の一般的な知見や、神様の問題まで持ち出して、単純に言ってしまえば説明台詞を延々と演じることになるから、大幅にカットされたのだ。と言っても大きなシーンはたった2つしかない。#84院長室と#124院長室で、両シーンとも三分の一くらいはカットされている。特に#124ではシーンのはじめがカットされているから、滝沢修の唐突な受け答えでシーンが始まる。

院長「・・・答えられませんね・・・わたしは神さまでない(淋しく笑う)」

という台詞がそうだ。一体どんな質問に答えられないと言っているのだろうか。当然察しが付くところだが、和江は幸雄と愛し合い結婚することは、兄の言う通り間違っていたのか、科学的に合理的な理由のある間違いだったのかと問うているのだ。

■さらに、このシーンの前段には、重要な要素が書き込まれている。それは兄の存在と「近所の娘」(映画では「隣のお姉さん」)との過去の縁談のエピソードである。ここは良いシーンなので、長くなるが実際のシナリオを参照してみよう。

和江「ほいじゃあ幸雄さん、たとえ死なんでても、結婚しちゃいけん人じゃったんですか?」
院長「さあ・・・むずかしい問題じゃ・・・」
和江「先生、うちの兄は、以前にある縁談があって・・・その娘さんがひどい被爆、学徒動員で、顔を半面・・・」
院長「(大きく、うなずく)」
和江「手術で跡もうすうなりました。ほいでも相手が被爆者じゃけんいうて断りました・・・その方はその後二度も自殺をはかったり・・・でも、やっぱり兄は正しかったんですか?」
院長「・・・」
和江「兄は、幸雄さんから遠ざかれいうて、ひどういいます。うちはそれを無視して病院へきました。・・・うち、間違うとったんですか?」

これらの描写からわかるとおり、やはり本作で兄の存在は非常に大きく、ラストシーンの改変は実に合理的な判断であったことが分かるだろう。中尾・浜川のカップルとの対比とともに、垂水・芦川の幻のカップルが対置されていることがよく分かる。時系列的に並べれば、垂水・芦川の破談、吉永・渡の悲恋があり、中尾・浜川の一見平凡なカップルが、最終的に原爆ををどう考えるのか、被爆者への偏見をどう考えるのか、これからの生き方を問われるという構成になっている。だからシナリオのラストシーンは、中尾・浜川カップルで締めくくっているわけだ。

■ところがシナリオを読んだ蔵原監督は、きっと若い世代のカップルに問題をバトンタッチして終わりというのでは不誠実ではないかと考えたのだろう。シナリオをちゃんと読むと、明らかに和江と兄の関係がこの映画の肝になっている。和江が口にするのは、母がこう言ったという話題は一切なく、すべて兄がこう言ったと、兄がこうしたという言及ばかりなのだ。そして、映画の中に他人ごとではない自分自身を見出し、この映画のテーマを背負わせるためには、若者ではなく、働き盛りで家庭を背負った、つまり当時の日本社会の中心である兄の姿が相応しいと考えたのだろう。和江を自死まで追い詰めたものは、煎じ詰めれば兄が背負ったもの(世間の目、世間体)であり、妹の死で彼は十字架を背負わなければならないと監督は解釈したものだろう。だから、シナリオには書かれてない兄をラストシーンに呼び寄せ、家族も友人も、誰も追いつけないほどの速さで旅立ってしまう和江の魂に、最後まで茫然自失で寄り添うのは兄でなければならなかったのだ。シナリオでは若い世代が理不尽に対する怒りを受け継ぐことで終わっていたが、むしろ兄が一生背負っていくべき”罪”に寄り添ってこの映画は終わるのだ。幸雄を殺したものは原爆とこれを無慈悲に使った異国人に違いないが、和江を追い詰めて殺したのはむしろ兄が背負った何ものかであったというのがこの映画がシナリオから様々な要素を削ぎ落とすことでたどり着いた結論だったのではないか。


疑問④その他は、どんなシーンがカットされたのか

■その他にも、純愛物語からはみ出してしまう、被爆の実相を伝えるシーンが完成した映画からはごっそり抜け落ちている。ひとつは原爆病院のロビーで患者がテレビの記者にインタビューされる場面、もう一つは病室で患者Aが幸雄に和江と肉体関係があったのかと聞く場面である。2つとも被爆者の声をドキュメンタリータッチでストレートに表現した場面だが、物語に直接関係のない人物なので、確かにシナリオ時点でも唐突で、取ってつけたような印象がある。最終的に全体のバランスを考えたときに割愛すると言う選択は合理的とも思える。

■ただ、そのために広島平和大会を映した場面が完全に浮いてしまって、意味のない場面になってしまった。シナリオでは平和大会の前日に地元の若者達が居酒屋で激論を交わすドキュメンタルな設定の場面があり、対になって意味を持つ構成になっていたのだ。それらを割愛するなら、平和大会の平板な映像もカットすべきだったと思う。

■前者の原爆病院ロビーでのインタビュー場面は幻の場面として埋もれさすには惜しいので、後日台詞を紹介したいと思う。

■また、吉永小百合の証言では、芦川いづみの登場場面もカットされたという。完成版の映画では2シーンしか登場しないが、シナリオにはあと2つのシーンが設定されている。吉永小百合の証言では顔のケロイドが日活首脳部の琴線に触れたようで、いくつかカットされたため最終的にラストシーンの1カットだけにケロイドが映し出されたと述べているが、これは一部正確でないかもしれない。『わたしが愛した映画たち』では以下のように語っている。

「オールラッシュのときには、映っている場面がいくつもあったんです。ところが、上層部の鶴の一声で、ほとんど切られてしまった。ケロイドは、瞬間的に見えるところが1カット残っているだけです。」

しかし、シナリオでは芦川いづみの顔のケロイドの指定は、実はラストシーンのみで、それまでの登場シーンでは敢えて見せず、ラストシーンだけで明示する意図だったように読める。そこは監督の演出意図だったように見えるのだ。元々のシナリオでは前述の滝沢修の台詞のように顔面の半分に被爆の爪痕がと説明されるのだが、その部分はカットされているから、芦川いづみの顔のケロイドはラストシーンで衝撃的に明かされることになっており、その演出意図は非常に成功しているように、実際のところ感じるのだ。(まだ続く)


吉永小百合が★★の匂いで失せ物を発見する!『草を刈る娘』

草を刈る娘 [DVD]

草を刈る娘 [DVD]

  • 発売日: 2008/02/09
  • メディア: DVD

基本情報

草を刈る娘 ★★★☆
1961 スコープサイズ 87分 @DVD
原作・石坂洋次郎 脚本:三木克巳 撮影:岩佐一泉 照明:三尾三郎 美術:佐谷晃能 音楽:池田正義 監督:西河克己

感想

津軽地方の岩木山周辺の古い習俗を元に描いた牧歌的な青春映画で、意外にも秀逸な喜劇映画。まるで西部劇映画のような雄大なロケ撮影が圧巻。明らかに西部劇映画を意識した演出だ。
■当地方では冬が訪れる前に馬草を備蓄するために山間の草原に野営して草刈りをする風習があるが、2つの部落にはそれぞれ世話焼き婆さんがいて、若い集を連れてきては番わせようと画策していた。というお話。
■世話焼き婆さんを演じるのが望月優子清川虹子で、大勢の男女を番わせると功徳になって極楽へいける、ありがたい、ありがたいと信じている。なるほど、そういう動機なのかと変に納得。清川虹子なんて、よく知っているのは、後年のもっと下品な感じになってからのイメージが強いので、まだ若いし誰かと思ったよ。
■脚本の三木克巳東宝井手俊郎の変名で、プロデューサーの坂上静翁と東宝で一緒だった縁で日活映画でも組んだようだ。『警察日記』の大成功が大きかったのかな。東宝映画では他にも喜劇専門のライターがいたからか、あまり喜劇は担当していないのだが、日活では喜劇の才能を発揮して、西河克己と組んで実に洗練された喜劇を残している。本作も、田舎の習俗を扱った牧歌的な作風だが、喜劇要素の描き方がいちいち端正なので、オーソドックスな笑いを誘う。
■ことに小百合と光夫のコンビは清心で、ホントに心洗われる気がする。光夫が草原にガスライターを落として諦めたと言うと、小百合が彼のでっかい野糞の匂いを頼りに見つけてきてやる場面など、伝説的な傑作場面。素朴に可愛くて大爆笑の名場面。終盤にはお約束どおり三角関係になるし、唐突に殺人事件が発生するし、どうなるかと思えば、あっという間に解決してしまう。このあたりの急転直下ぶりが確かにカタルシスで、結構念入りに伏線を張っているから悪くないし、近藤宏が珍しく頭の弱い役で設け役。
■ラストの2つの部落のキャラバンがまた来年会おうな~といいながら別れてゆく場面も雄大なロケ撮影が素晴らしく、白馬に跨った浜田光夫も完全に西部劇要素の入った白馬の王子に見えてくるから、若いっていいな。
www.nikkatsu.com


時代劇版「怪獣総進撃」だよ!『かくて神風は吹く』

基本情報

かくて神風は吹く ★★☆
1944 スタンダード 94分 
原作:菊池寛 脚本:松田伊之助、館岡謙之助 音楽:宮原禎次、深井史郎 撮影:宮川一夫、松井鴻 美術:高橋康一、川村鬼世志 特殊効果:東宝株式会社 監督:丸根賛太郎

感想

文永の役の後、元の使節を惨殺した北条時宗片岡千恵蔵)は次なる元の襲来に備えて大号令をかける。一方、伊予国では河野家と忽那家が対立していたが、河野家は一番乗りを目指して早々と博多に手勢を送り込む。河野との友好に難色を示す海賊気質で戦闘上手の惣那重義(嵐寛寿郎)も、ついに持ち船を博多に派遣することを命じる。やがて対馬壱岐に上陸した元軍は大殺戮を開始する…
陸軍省海軍省の協賛で情報局が企画した戦意発揚映画で、戦時体制にて映画製作会社の統合が進み、東宝が特撮シーンの制作を請け負い、円谷英二が担当したことで有名な作品だが、初めて観た。当時の時代劇オールスターキャストだが、実質の主役は阪東妻三郎で、おなじみの独特の節回しの台詞と豪快なキャラクターで魅せる。敵対するのが半分海賊気質が残る武士の嵐寛寿郎で、おもしろいのが、他の大物俳優がみんないかにも時代劇風の大仰な台詞回しなのに、アラカンだけ妙にフラットな現代劇風の台詞回しなんだね。特に片岡千恵蔵なんて戦後ではなかなか見せないほどの大熱演で、悪く言えば非常に臭い芝居だけど、アラカンのこのナチュラル演技には驚いた。とはいえ、顔自体が濃いので、アップになるとそれだけで十分クドいんだけど。
市川右太衛門がどこに出てるのかと思いきや、日蓮上人じゃないですか。『日蓮と蒙古大襲来』の長谷川一夫ほど出番は多くないけど、大変な貫禄です。
■ドラマのクライマックスは、船があれば元軍に夜襲をかけられるのにと切歯扼腕しているバンツマのもとに、アラカンが持ち船を連ねて駆けつける場面で、二人が握手するところ。ゴジラガメラみたいな夢の共演でしょう。元軍は、やっぱりキングギドラでしょうね。
■一方、元軍の軍船のミニチュアワークはさすがに見応えがある。とはいうもの、クライマックスの神風の場面は同じようなカットの繰り返しで、実際のところ冗長。昔の日本映画の大作ではありがちな状態だけど、ドラマ的なサスペンスを仕掛けていないので、単に派手なスペクタクルを見せておけば退屈しないだろうという、間違った信念による編集が行われている。

なにが彼らを殺したのか?静かな怒りが心に澱をのこす『愛と死の記録』

基本情報

愛と死の記録 ★★★★
1966年 スコープサイズ 92分 @DVD
企画:大塚和 脚本:大橋喜一、小林吉男 撮影:姫田真左久 照明:岩木保夫 美術:大鶴泰弘 音楽:黛敏郎 監督:蔵原惟繕

感想

■昭和41年の広島、印刷工の青年と知り合った娘は結婚を決意するが、乗り気だった彼の気持ちが揺れ始める。彼は原爆症を発症していたのだ。

■『愛と死を見つめて』の大ヒットに気を良くした日活が吉永、浜田の青春コンビで企画した純愛映画だが、浜田が喧嘩事件に巻き込まれ負傷したことから共演者は渡哲也に変更された、昭和41年度の芸術祭参加作品。しかし、なかなか安易なシリーズ化路線とは思えない不思議な野心作である。ヒバクシャ差別、とくにあらゆる差別問題に見られる、もっともデリケートなテーマである、結婚差別問題を描く。

■そもそも脚本を書いているのが日活映画の常連のライターではなく、なんと劇団民藝の劇作家らしい。出演者も民藝ラインで脇を固めていて、実質的には民藝の企画ではないかと思われるのだ。しかも実は原作があり、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』にある若い被爆カップルのエピソードを下敷きにしているらしい。単なる純愛映画ではなく、実録映画としての側面も持っているのだ。そして撮影はほとんど広島でロケ撮影されていて、日活リアリズム路線の姫田キャメラマンが機動的で意欲的な画作りを見せる。市街地の夜間ロケとか、長回しとか、超望遠とか、テクニック的にも相当冒険しているし、その生々しい息遣いが反映している。窓の外の光景も、ほぼロケ撮影で、後年のカラー撮影だと白く飛んでしまうような場面も、かなりキレイに陰影のバランスを保っているので、映像の立体感が自然に出てくる。

■前半は吉永と渡の典型的な純愛物語だが、渡は中盤であっけなく亡くなってしまう。原爆症だけでなく、他の病気でもなかなかそう簡単には死なせてくれないものだが、映画はそこまで辛い見せ方はしない。この時代の娯楽映画だからね。

■でもこの映画の真骨頂はその後の吉永の魂の彷徨を描く部分にある。彼はなぜ死ななければならなかったのか。その理由を、原爆の残酷な傷跡を私はなにも知らなかった。原爆病院の院長を訪ねてその訳を聞く場面は圧巻だ。フルショット、フィックスの長回しで、滝沢修が一人舞台を演じる。原爆症の発症者と結婚して、遺伝的に子孫に影響が出るのか、出ないのか、科学的にはわかっていないのだ、神ならぬ医師には、その可能性がないとは言えないのだ。だとして、君はそれで愛を諦めますか?と問う。この映画の後半の最重要人物はこの院長なのだ。その間、画面は重い雲が上空をよぎり、照明効果で画面は不気味に暗転する。基本的にリアリズム映画だが、所々に表現主義的な照明効果が生かされている。

■青年の死後、気持ちの整理をつけて日常生活に復帰したかに見えた彼女だったが、院長を訪ね、隣家のお姉さんを訪ね、自分の心の中だけで一つの決意を固めてゆく。この映画は、編集のタイミング等から、脚本にはあった細部が編集でカットされたのではないかと疑われる部分がある。滝沢修の上記の場面の入り方もそうだし、隣のお姉さん、芦川いづみのカット尻も、まだ何かを語ろうとしているように見える。

■そう、映画の冒頭でこの隣のお姉さんのためにレコードを購入していた件がここで回収され、満を持して登場するのが日活の名花・芦川いづみなのだ。もうここで決定的に泣けてくる。もともと小百合の兄の恋人だったが破綻していて自殺未遂の過去がある。その原因は彼女がヒバクシャだったからなのだ。芦川いづみはロケには参加せず、2カットのみの登場なので、特別出演扱いだが、決定的に重要な役割で、実はこの映画において滝沢修とともに物語の核心となっている。

■その兄は垂水悟郎が演じるが、市役所に務める保守的な現実主義者で、ヒバクシャと付き合うなんてもってほのかという、当時のヒロシマの差別のありようを代弁する立場で登場する。だからラストシーンで妹の自死に激しく狼狽する彼の姿の悲痛さが胸を打つ。彼が守ろうとしたものが最悪の形で壊れてしまった。いや、彼が妹を追い詰めたのかもしれない。現地ロケの威力が最大限に発揮されたラストシーンのリアルな空気感は、あまりに残酷で悲痛だ。

■本作と同じようにヒバクシャの問題を描いた恋愛映画として今井正の『純愛物語』があるが、本作はヒバクシャに対する”差別感情”を中心に据えたところと、それを実際の広島で撮ったことが大きな特徴である。4年前の『その夜は忘れない』も広島ロケが秀逸な異色作だったが、風俗映画として作られたところに限界があった。

■本作は全体に駆け足すぎる感じが残る映画だが、そのことが却って後を引く。彼女の唐突に見える自死は単なる悲劇なのか、あるいは静かな告発なのか。あえて明確な主張を叫ぶこと無く映画は終わる。映画は終わるけど、そこから観客の心のなかで問が始まる。彼らはなぜ死ななければならなかったのか。彼らになんの罪があったのか。芦川いづみの蒼白な虚無の表情を想い出すたびに、確実にバトンは渡されたと感じるのだ。(その一人が吉永小百合その人で、今に至る反核運動参加の原点となっている)


補遺

■(補遺1)そもそも企画の大塚和という人が劇団民藝の映画部の人なんだね。1955年に設立された独立プロダクションである民藝映画社の社長で、日活とはプロデューサー契約していたらしい。日活と劇団民藝は提携していて、日活のリアリズム路線はこの大物プロデューサーがリードしていたようだ。『豚と軍艦』『にっぽん昆虫記』『執炎』『キューポラのある街』『日本列島』『けんかえれじい』と列挙すると、日活を代表する名作揃いで唖然とするけど、ちょっと凄過ぎるプロデューサー。その割にはあまり大きく取り上げられないのが不思議。だから本作も劇団民藝ありきで企画開発が行われたというわけ。日活スターは普通に出るけど、日活映画の中でも大塚和ラインは実質的に別会社、別系統になっていた雰囲気だな。民藝映画社日活支部とでも呼ぶのが正しいのかもしれない。イメージ的には、民藝映画社制作、日活配給という構図じゃないかな。

■(補遺2)小百合たちが住むバラック建ての家並みは、当時はまだ相生橋付近の旧太田川沿岸に残っていた、いわゆる「原爆スラム」でロケしたもの。本来は相生通りと呼ぶ。家の中の場面もセットではなく、ロケ撮影を行っており、完全に日活リアリズム路線の方法論。なので記録映画としても貴重。しかし、いくら戦後世代とはいえ、原爆スラムに生まれつきながら、青年の秘密に鈍感にも気づかず、原爆症のことも何も知らなかったと述懐するのは不自然に思えてくる。このあたりの描き方、脚本の原本で確認してみたいな。

■(補遺3)この映画の当時の「原爆スラム」は混住が進んでいて、終戦直後の引揚者、被爆者、在日の割合が相対的に低下し、流入した一般の低所得労働者が増えていたらしい。お役所的には不法占拠地なので上下水道はないが、互助の気風もあり、利便な立地で、案外暮らしやすかったとも言われている。そもそも「原爆スラム」の正式な定義はなく、指す地区範囲も曖昧で、もともと平和都市再開発のクリアランス予算を獲得するためのキャッチフレーズとして市会議員か役人が考案した言葉らしい。「平和都市広島」の完成、総仕上げをわかりやすく内外に示すためには、負の遺産たる「原爆スラム」を悪ものに仕立ててクリアランスするという”イベント”が必要だったということらしい。

■(補遺4)脚本の大橋喜一という人は民藝の劇作家で、原爆三部作と言われる昭和43年『ゼロの記録』、昭和46年『銀河鉄道の恋人たち』、昭和54年『灰の街のアメリカ紳士』を後に書いている。この映画の後にこれらの代表作が生まれているわけ。その意味では、本作を加えて原爆四部作とも言える。

■(補遺5)共同脚本の小林吉男も民藝所属の人らしく、河辺和夫監督の『非行少年』では美術を担当している。(姉妹編の『非行少年 陽の出の叫び』では美術が民藝演出部となっているから、演出部の所属だったのかな。▶正確には、民芸映画社演出部の所属らしい)2016年、広島平和記念資料館にこの映画の脚本執筆時の資料等を寄贈していて、主人公のモデルになったカップルの友人たちに取材したノートが4冊残されている。「ヒロシマの恋人たち」「にがい沈黙」といった仮題がつけられていたそうだ。映画に登場する喫茶店の場面は、どうも実際に亡くなった二人が逢っていた店らしいのだ。。。

そこは、瀬戸内海の地獄?「舵子事件」を水木洋子が激烈告発する『怒りの孤島』とはどんな映画だったのか?

『怒りの孤島』とはどんな映画か

昭和32年に、久松静児監督による『怒りの孤島』という映画が公開されました。脚本は当時乗りに乗っていた女流脚本家の水木洋子のオリジナルですが、この映画は当時話題になったものの、いまではほぼ観ることができない映画なのです。

なぜなら、実際に起った児童虐待死事件を扱った半実録映画で、公開後に様々な波紋を呼ぶことになった数奇な映画だからです。

この映画の何が問題になったのか?

この映画はいわゆる「舵子事件」に取材して、昭和29年に水木洋子が『舵子』としてラジオドラマ化したものを後に日映という独立プロダクションが映画化したものです。

文部省特選映画として公開され、その後には小学校の講堂で上映されたりしたらしく、観たことのある人は意外に多いらしいのですが、その際にあまりに酷い児童虐待の内容に子どもたちの多くが恐怖を覚え、心に暗い爪痕を残したそうです。

実際、このポスターの強烈な絵柄だけでなんとも言えず、十分に恐怖です。。。

「舵子事件」とは何か?

「舵子事件」とは、昭和23年に最初に発覚した、瀬戸内海の離島情島山口県)で起こった児童監禁死亡事件のことです。

平坦地が少なく、漁業が生業であった情島では、村の世帯は限られていることから、漁業に子どもの労働力に頼る必要があり、いろいろな出自の子ども(戦災孤児児童福祉施設の子ども)たちが半ば売られるようにして本土から連れてこられたそうです。

当地は優良な漁場があり、桜鯛の一本釣りが盛んだったので、船の櫓をとって舵を安定させる役目が必要でした。それが舵子のしごとですが、波穏やかな瀬戸内海とはいえ漁場付近は急流があり、舵子は重労働でした。

耐えかねて逃げ出そうとした少年が雇い主の住民に捕まって、魚の餌を生かしておく箱(いけす)の中に監禁され、挙げ句に餓死したという事件が全国に報道されました。

「殺されても帰らぬ 脱走少年が語る情島の奴れい日記~改まらない差別待遇~」などと報じられたり、「アサヒグラフ」に写真付きで載ったりしたことから、当時センセーショナルな話題となったそうです。

しかも、一旦終息したと思われた後も、昭和26年になって再び舵子5人が脱走して児童相談所に保護され、相変わらず奴隷労働が続いていたことが明るみに出ます。

水木洋子もそれを知って理不尽に憤った一人で、正義感から独自に取材を重ね、昭和29年に3回シリーズでラジオドラマ化し、後に実録映画のシナリオとしたものです。働き盛りの当時の水木洋子はかなりの力を入れていたことがわかっています。

確かに、断片的に当時の記事や資料を読む限り、今の常識では児童虐待に間違いはないでしょう。ただ、舵子という島特有の児童労働制度については、歴史的経緯や敗戦後間もない時代背景などから割り引いて考える必要があるでしょう。この舵子労働じたいは船の動力が人力からモーターに置き換わるまで、大正から昭和30年ころまで見られたそうです。

「舵子事件」に関するさまざまな評判と反響

この映画や情島の舵子労働の歴史については、一方的に本土の都会の目線で児童労働を奴隷労働として断罪するという姿勢について、逆に地方差別ではないかという反論も起こります。せっかく本土から来た有識者たちに対して島民は素朴に、率直に話して聞かせたのに、映画の描写としては人身売買の人非人の島として描かれたらしく、当然島の漁民は反発します。一部の明らかに行き過ぎた、逸脱した異常な事件をもって島の伝統的な制度全体を断罪するなという考え方で、一理あるとは言えるでしょう。

日本がまだ貧しかった時代、舵子に限らず、児童人身売買・児童強制労働は、地方にはいわば伝統的・普遍的に存在していたからです。

『怒りの孤島』を製作した日映という会社

一方、この映画を製作した日映という製作会社は、大映の専務だった曽我正史という人が電鉄会社の出資を受けて新たな邦画メジャーを立ち上げようとしたクーデター計画に失敗し、小規模な独立プロダクションとして設立されたといういわくつきの製作会社で、本作を初回作品として、次に佐分利信監督の『悪徳』の二作だけを製作したのちに解消してしまいました。(ちなみに、曽我正史は後に松竹系の歌舞伎座プロに役員として迎えられており、日映の機材等も承継されたそうです)
maricozy.hatenablog.jp

やがて映画は上映の機会も失い、残っていた上映用プリントも物理的に消耗して、いまでは実質的にほぼ消滅してしまったというわけです。東京国立近代美術館フィルムセンターにも上映プリントは収蔵されていないようです。

それでもなんとか観たいのよ!

なにしろ水木洋子の全盛期の仕事なのでぜひ観たいわけです。監督が久松静児なのでエグい演出はないでしょうし、決して後味の悪い映画にする意図はなかったようです。そのための総天然色ワイドによる風光明媚なロケ撮影だったようです。

そもそも昭和32年の独立プロ作品なのに、モノクロスタンダードじゃなくて、カラーワイド(日映スコープ総天然色)ですから、それだけで異様に大作仕様なのです。東映のカラー&シネマスコープ第一作が同年の4月に公開されたばかりですから、ちょっと異常とも言えるハイスペックなのです。そこだけ取っても映画史的には謎を含みます。電鉄会社を巻き込んでの日映設立クーデターは失敗したものの、本気で邦画メジャーに対抗するつもりで撮影機材だけは最新型の一式を先走って発注してしまっていたのでしょうか?まるで円谷特技プロのオプチカル・プリンター事件じゃないですか!

しかも主演の少年が東宝映画でおなじみの鈴木和夫で、唯一の主演作です。東宝では脇役だったわけですが、かなりの性格俳優ですから、演技的には期待できます。

なお、「シネマ△トライアングルがお贈りする「発掘!幻の映画」シリーズ」として2010年にかろうじて残存していた16mmプリントを修復して上映されたことがあるようです。修復とはいえ、リマスターではないので、真っ赤に褪色して雨の降るプリントだったようです。

どこかからオリジナルネガが発見される奇跡を、映画の神様に祈りたい気分なのです。


追加情報①

『怒りの孤島』の撮影に参加したスクリプターの中尾壽美子によれば、監督の久松静児が水木の脚本をほとんど書き直したとのこと。当然、試写を見た水木洋子「あたしの台詞一個も使ってない」と立腹したそうです。

追加情報②

もともとは『海は知っていた』という仮題で準備され、久松監督で撮入したものの、日映の独立プロとしての制作環境の厳しさから、悠長に天気待ちなどもしておられず、天候不順で撮りきれなかった部分等を脚本の改変と編集で取り繕ったらしく、ラストも児童憲章を掲げて、脚本とは異なる取って付けたような結末になってしまったらしい。上記の中尾壽美子の証言も、その周辺事情を物語るものだろう。

参考文献

mukasieiga.exblog.jp
seesaawiki.jp
吉村昭が舵子事件に取材した『鯛の島』という短編小説を書いています。そもそも丁稚奉公であった島の舵子制度を、奴隷労働、児童虐待として糾弾したのは進駐軍民主化政策のアピールのためで、その槍玉に挙げられたのだという観測で書かれています。小説なので、そのあたりは完全に推測なのか、とはいえ吉村昭なので取材で裏が取れているのか、詳細は不明。

http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yp/Detail.e?id=35220101008083815ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp
maricozy.hatenablog.jp
maricozy.hatenablog.jp

© 1998-2024 まり☆こうじ