『「おんなの小箱」より 夫が見た』

「おんなの小箱」より 夫が見た
1964/スコープサイズ
(2001/3/9 京極弥生座1)
原作/黒岩重吾 脚本/高岩 肇,野上龍雄
撮影/秋野友宏 照明/伊藤幸夫
美術/渡辺竹三郎 音楽/山内 正
監督/増村保造

感想(旧ブログより転載)

 中堅企業の株式課長(川崎敬三)の妻、那美子(若尾文子)は夫に顧みられない寂しさから、会社の乗っ取りを企んで株式の買い占めを謀る青年実業家(田宮二郎)の誘いに心を奪われる。最初は株主名簿が目的だった男だが、かねてからの夢だった堅実な会社の社長に就くことよりも、那美子との愛に身を捧げることを決心し、買い占めた株券を手放す。だが、その男の夢の実現に身体を張って協力してきたクラブのママ(岸田今日子)は男の裏切りを許さないのだった。

 増村保造フィルモグラフィーのなかではあまり大きく扱われない作品だが、むしろ代表作とされる「妻は告白する」よりも増村保造のエッセンスが凝縮された文句無しの傑作。一昔前まではテレビでも頻繁に放映されていた作品で、少なくとも数回は観ているはずだが、今回は待望のニュープリントでの上映。もっとも典型的なプログラム・ピクチャーで、撮影技術的にも特別に優れているわけではないので、審美的な愉しみはむしろ少ないだろう。

 なんといってもこの作品での見所は若尾文子田宮二郎との出逢いをとおして女として自分の意志で生き始めるその姿のエロティシズムに尽きるだろう。どのシーンをとっても完璧な美しさで、ステロタイプな生き方や考え方しかできない男達の喉元に、ふてくされたような面もちで究極の選択という刃を突き付ける。男の夢をとるのか、私との愛をとるか、田宮二郎川崎敬三に同じ問いかけを突き付けて男達を恐慌させ、その果てに悲劇を呼び寄せる彼女の論理の理不尽さは女という存在の不可解さ、その得体の知れ無さをこれ以上ないほどに体現して他の追随を許さない。

 物語的にはいかにもありきたりなメロドラマの様式を取りながら、田宮二郎の西洋的な意志と理性を物語る当時の日本には希有の肉体と、典型的な日本人である若尾文子(と、その吹き替え)の肉体を対比させながら増村保造独特の緊密な図式劇に一種の神話性すら付与している。その意味で、この作品は増村保造の諸作品のなかでも、きわめて特別な位置にあるだろう。

 そして、女が自らの意志で自分の肉体と精神を制約する桎梏から脱し、自分の信じる愛を貫こうとするとき、必ず悲劇を呼び寄せて孤独の中に取り残されるという増村保造が繰り返し提示してきたモチーフは、女性の社会的進出にともなう経済的自立という、増村保造の活躍した時代とは隔世の感がある現代の社会的状況のなかでも決して意味を失うものではないだろう。

 増村保造の映画の中で若尾文子が演じた恋愛と呼ばれる不条理な絶対恐怖体験の生還者は、怪奇映画において死を呼び寄せる不死者としての”怪物”に比肩されるべき存在であるからだ。

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