『清作の妻』

基本情報

清作の妻
1965/シネマスコープ
(99/9/25 京都文化博物館
原作・吉田絃二郎 脚本・新藤兼人
撮影・秋野友宏 照明・伊藤幸夫
美術・下河原友雄 音楽・山内 正
監督・増村保造

感想(旧ブログから転載)

 金持ちのご隠居の妾だった主人公(若尾文子)は生まれ故郷の村に帰っても蔑視され村八分状態だった。除隊されて帰郷し英雄と讃えられる青年(田村高廣)と愛し合うようになるが、男が日露戦争に出征し、負傷のため一時帰郷後、死を覚悟して再び戦地に向け出征する時、男を引き留めるために凄惨な凶行に及ぶのだった。

 反戦映画として戦前にも映画化された原作のリメイクだが、増村保造が監督だからそうした社会性よりも、ムラ社会の中で賤視や誹謗中傷にもめげずひとりの男を狂的なほどとことん愛しぬき、ついには男を不具にしてでも自分の元に留め置こうとする激烈な恋愛劇となっている。そうした不条理なまでの行為に殺意まで抱いていた青年が逮捕された女が刑期を終えて出所してくるまで待つ間に女の真意を悟ってゆくクライマックスが圧巻。

 村一番の模範青年が主人公との恋を契機として逆に非国民と罵られるまでに孤立してゆくことになってゆくわけだが、肉眼を喪って心の眼が開くことで、真実の自分らしさに目覚めるという脚本構成の図式性はいかにも増村保造らしい。そこにかなり説明的ではあるが一定の社会批判とともに盲目という谷崎的モチーフを介してSM的な人間関係を浮かび上がらせる重層性が増村映画の醍醐味だ。

 しかし、増村的な図式性を圧倒的なフェロモン体質で肉体性に翻訳してしまう若尾文子の存在はなにものにも代え難い。爛熟した女というものを知ったとき、男はだれしも田村高廣になるのだろう。

 社会のなかでの自分の居場所や人間関係というネットワークといった個人のアイデンティティを支えるあらゆる社会性を放棄して、ひとりの女との一対一の関係性の中に没入する、あるいは若尾文子という単一存在の中に取り込まれてしまうことで反社会の闘いを戦い抜く闘争劇と見ることもできるし、あるいは若尾文子の内なる地獄に堕ちる恐怖劇とも見ることができるだろう。

 「夫が見た」でも甘やかなメロディを提供している山内正の楽曲も素晴らしい。まあ「夫が見た」とほとんど同じような気もするが。


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