邦画界にクーデター勃発!「日映事件」とは何だったのか?

はじめに

■このページにたどり着かれた方は、ほとんどが舵子事件を映画化した『怒りの孤島』のページから来られた方だろうと思います。この幻の映画を製作した、日映なる映画会社(あるいは独立プロダクション)とは一体何だったのでしょうか。

■まず注意すべきなのは、ニュース映画の日本映画社(略称が日映)とも、1967年に設立されたピンク映画の日映とも別会社だということです。ここ重要ですね。

■さて、1957年に誕生した日映が、なぜにこれほど幻の映画会社なのかといえば、たった二本しか映画が製作・公開できなかったためです。でも、ほんらい日映は、いわゆる配給系統を持たず、映画製作だけを行う「独立プロダクション」を目指したものではなく、邦画メジャーに伍する新たな製作・配給会社、映画興行会社となるべくして計画されたのです。つまり、東宝、松竹、東映、日活、大映、新東宝と並ぶ第7のメジャー映画会社になるはずだったのです。少なくとも計画段階では。

■すでに6系列の邦画メジャーがあるのに、さらに新系列を作るというのは、いかに邦画全盛期とはいえ、さすがに無理があると感じますが、当時はそれだけの熱量があったということですね。実際は、当時から大丈夫なのかという目で見られていたようです。当然ですよね。

■このページでは、謎の多い日映の誕生から消滅にまつわる出来事をわかりやすく整理してみたいと思います。

日映事件とは

■主な登場人物は以下のとおりです。実質的には、マーカーを引いた3人ですね。

<主な登場人物>
曽我正史:大映の専務
三宮四郎:京王帝都電鉄の社長
松尾国三:千土地興業の社長

永田雅一大映の社長
五島慶太東急電鉄の社長
宮沢胤勇:運輸大臣

■簡単にいえば、日映事件とは、1957年3月に突如として発表された新たな映画興行会社の設立計画と、その35日後のあっけない挫折の顛末をいいます。

その発端は

■1957年3月に邦画六社に加えて新たな資本金8億円の興行会社を設立する計画が発表されます。というか、毎日新聞がスクープの形で世に出ましたね。

■資本は京王グループの三宮が工面し、千土地興業の松尾が社長になるという計画でした。しかも、その主要メンバーは大映専務の曽我以下、大映の重役や社員たちだったので、様々な反響を呼びます。日映設立計画の中心人物たる彼ら3人がそのまま日映事件の中心人物となります。

■そもそも曽我がなぜ大映を割って外に出ようと考えたのか。永田雅一率いる大映はワンマン経営の最たるもので、そこから生じる社風の官僚主義や旧日活系社員への冷遇が、現場スタッフや社外からも強い批判をあびるなど社内風土に問題があり、経営陣の中で最も映画製作を熟知した曽我重役が辛抱たまらず飛び出したという構図があります。永田大映に不満を持つ実務者たちも行動をともにします。

■さらたに三宮は、京王の親会社の東急が東映を傘下に抱えていることを羨ましく思い、かねてから沿線に撮影所を持ちたいと計画していた経緯があります。

松尾は歌舞伎役者から実業家に成り上がった立志伝中の人物で、「昭和の興行師」とも呼ばれる大物です。もともと歌舞伎役者なので松竹と結びつきが深く、1954年から千土地興行(後の日本ドリーム観光)の社長となっていましたが、松竹映画の興行担当だけでなく、映画製作、独自配給に乗り出したいという野心がありました。当時は日本映画黄金期だったものの、興行会社は大半が赤字経営というのが実情で、自分ならもっと安くていい映画を製作して、興行側にももっと還元できるはずと考えたのでした。このあたりの映画界刷新の理念には曽我の共感するところとなり、松尾、曽我ラインが日映計画の背骨になったようです。

■そうした三者の思惑が合従連衡することで、日映設立改革が急遽具体化することになったのです、ちなみに、日映の設立資金は京王と千土地興業が折半する計画となっていました。

三宮失踪事件

■しかし、予定された資本金8億円のうち、半額を調達する予定の三宮が突如失踪してしまいます。三宮のその後4月末にやっと無事な姿を表しますが、京王は4億円の出資を否定し、日映設立を断念することを発表します。一体、なぜ三宮は失踪しなければならなかったのでしょうか。

■その理由については諸説ありますが、当時の宮沢運輸大臣から圧力がかかった形跡があります。京王は政府に地下鉄施設費として7億円の融資を申請しているのに、本業とは直接関係のない新規事業に大規模投資を計画する余裕があるというのは、納税者に説明がつかないじゃないかと、「運輸事業の公共性」について「警告」したということです。

■政府から税金を引き出しておいて、そんな乱脈なことを計画するようなら、今後私鉄業界に対する政府融資は再考する必要があるなあ、などと仄めかしたりしたらしい。そうなると、事は京王だけにとどまらず、この事案によって京王は親会社の東急含め私鉄業界全体を敵に回すことになりかねない。この構図が浮上すると、さすがにもともと石部金吉とも言われる真面目気質の三宮はフリーズしてしまうわけですね。まあ、当然ですわね。。。しかも、当時は問題解決のためにはヤクザや愚連隊を平気で使っていた時代。

■しかし、映画会社設立の話が、なぜそんな政治問題に発展したのでしょうか。そこで誰しも思い浮かべるのが、あのヒゲメガネの人ですよね。つまり、その地下工作には巨額の政治献金自民党幹部と太いパイプを持つ大映永田雅一が関与していたという説があります。しかし、いかにもありそうな話です。永田が懇意の河野一郎を動かして運輸大臣から日映側に政治的に圧力をかける。曰く、「政府融資を受ける電鉄が多額の資金を他の業種に投入することは望ましいとはいえない」といった発言があったと言われています(大映テレビ室の安倍通典の回想による)。その時のターゲットは政府に巨額の融資や許認可で恩義がある京王社長の三宮になるのは自然な流れでした。永田としては、裏切り者・曽我が大映を割ろうとするクーデター計画に対して、搦手から反撃に出たというわけです。

■さらに、東急グループへの融資に絡んでの運輸省からの圧力、東映の経営立て直しで苦労した東急電鉄の五島が三宮の軽挙を諌めたなどの説があります。複数の要因が絡んでいるかもしれませんが、真相は藪の中です。まあ、永田の政治工作があったのはほぼ事実でしょうが。

日映のその後について

■日映設立計画はこうしてあっけなく頓挫してしまいますが、松尾は集まった資本金1億円で社員約30人規模の独立プロダクションとして日映を発足させます。これが1957年5月のことです。

■この、映画製作専門の独立プロダクションとして、その記念すべき第一作として製作されたのが『怒りの孤島』で、第二作目が『悪徳』(監督:佐分利信)だったのです。当初の計画とは違って配給網を持たないので、前者は松竹系、後者は大映系の配給により公開されます。松竹は分かるとして、大映が第二作を配給しているのが異様です。

■しかし、弱小プロダクションにはお決まりの資金難や配給交渉の難航などで、1958年1月に独立プロダクション日映はついに解散します。第三作目として『無鉄砲一代』が企画されましたが、これはお流れになります。ただ、この番線の統一感のなさも謎な感じですね。

歌舞伎座プロについても少しだけ

曽我以下、日映の残党スタッフや撮影機材を引き受けたのが、歌舞伎座プロという映画制作会社ですが、これはおそらくは松尾のコネクションが反映したものでしょう。松尾は松竹の白井松次郎、白井信太郎らと一緒に働いていた興行界の大物なわけで、松竹とは極太のパイプがありました。

歌舞伎座プロは松竹が1956年に、歌舞伎の人材を映画界で活躍させるために設立したプロダクションですが、実質的には山本薩夫今井正五所平之助といった左翼系の映画監督が活躍することになる、ちょっと奇妙な製作プロダクションです。松竹系なのにね。

■ちなみに前述の『無鉄砲一代』は、歌舞伎座プロが志村敏夫監督で映画化しています。

日映、夢のあと

■このように日映は邦画界第7のメジャーとして計画された無謀な青写真が、ある意味当然のように潰えた、邦画史における苦い記憶なのです。

■しかも第一回作品『怒りの孤島』ではシネマスコープ、総天然色という、1957年当時の最先端のハイスペックな機材を投入した、それなりの大作だったのです。

東映が『鳳城の花嫁』を、日本映画初のシネスコ、総天然色映画として公開したのが1957年4月、東宝の同スペックの大作『地球防衛軍』が1957年12月公開なので、1958年2月公開の『怒りの孤島』は、映画機材的には当時最先端の奢ったスペックだったのです。日映設立計画の本気度具合がうかがわれる事実ではないでしょうか。

参考資料

田中純一郎(1968)『日本映画発達史Ⅳ』 中央公論社
井上雅雄(2018)「新映画会社の設立構想とその挫折-「日映」事件とその歴史的意味-」『立教経済学研究』 第71巻 第4号 p.79-101
www.eiganokuni.com

参考

maricozy.hatenablog.jp
▶『蟻の街のマリア』も、結構幻の映画ですが、歌舞伎座プロの制作でしたね。
maricozy.hatenablog.jp

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