『刺青』

基本情報

刺青
1966/CS
(2003/5/17 衛星劇場録画)
原作/谷崎潤一郎 脚本/新藤兼人
撮影/宮川一夫 照明/中岡源権
美術/西岡善信 音楽/鏑木 創
監督/増村保造

感想(旧ブログから転載)

 懇ろになった使用人(長谷川明男)と駆け落ちした質屋の娘(若尾文子)は船宿の主(須賀不二夫)にだまされて女郎屋に売り飛ばされ、名うての刺青師(山本学)により背中に忌まわしい女郎蜘蛛の刺青を入れられてしまう。窮地を脱するため、不本意ながら殺人を繰り返すはめに陥って鬱屈を深める男に反して女は男どもを手玉にとって弄ぶことに愉楽を感じていた。だが、旗本(佐藤慶)との出逢いにより、愛人との別離を決意するや、逆上した男は彼女に刃を向けるのだった。

 この物語を普通に脚色し演出すれば、怪談映画めいた凄惨な残酷劇として完成するはずなのだが、新藤兼人増村保造のコンビは明らかにそうした通常のアプローチを拒絶して、あくまで自分の思い描く女にそうした怪談映画じみた境遇を生きさせてみるという手法を選択している。そのことが、この映画の特異性と物足りなさの根底にあるだろう。

 定石ならば、無垢な町娘が無理やり刺青を入れられたせいで、男を食い物にする魔性の女に変貌してゆくところが劇的な要諦になるべきところだが、ここでの若尾文子ははじめっから増村的キャラクターの完成形として登場し、最後までそれは揺らぐことが無い。つまり、境遇の変化のなかでも、彼女は微動だにせず、常に不動であり自信に満ちている。

 傑作「夫は見た」では定石どおりに増村的ヒロインに変貌してゆくプロセスが理詰めで描かれたことと対照させると、この映画の特異性が際立つ。「夫は見た」での田宮二郎に対応する佐藤慶との恋愛が増村的な真実の愛であるのかどうかも検証される間もなく流血の修羅場へと性急に突入してゆくこの映画のクライマックスは端的にいって90分では尺が足りなかったのではないかと思わせる。

 小心者でありながら成り行きから殺人を繰り返して怯え続ける普通の男を演じる長谷川明男は意外にはまり役で、もちろん脂の乗り切った若尾文子の美しさは絶品。自分の作品に命を吸い取られる刺青師を演じる山本学は、本当なら岸田森あたりが適役なのだが、この時期はまだ文学座の駆け出しだから無理な注文。

 あまり大掛かりなセットは組まれていないが、さすがに戸の塗装などに拘りの質感を見せ付ける大映美術部の仕事は贅沢で、あまり増村保造とは相性が良くないように見える宮川一夫キャメラも改めてノートリミングで褪色のないプリントで観ると、さすがに凝った絵作りが堪能できる。

 増村保造の映画としてはあまりできの良い部類でないが、やはり他のどんな映画にも似ていない増村ならではの孤高の女性映画だ。

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