日活リアリズム映画路線の父・大塚和と民芸映画社の世界(後編)

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(承前)

若手監督の名伯楽としての大塚和

■民芸映画社の社長であり、日活映画の契約プロデューサーとして活躍した大塚和ですが、民芸映画社としての作品はそもそも、あまり多くないので、日活映画本体で契約プロデューサーとしての活躍がどうしてもメインとなります。そのフィルモグラフィーの中では、1960年代前半を中心とした有能な新人監督の発掘や意欲作の企画が特筆すべき業績と言えるでしょう。民芸映画社では若杉光夫の生真面目さもあり教育映画的な作風でしたが、日活本体ではリアリズム路線を基調とはしながら、より幅広い才能や素材を送り出します。

今村昌平をバックアップする

■その大きなステップとなったのはなんと言っても今村昌平の存在でしょう。1958年の『果てしなき欲望』で今平を監督デビューさせ、1961年『豚と軍艦』、1963年『にっぽん昆虫記』、1964年『赤い殺意』といった全盛期の代表作を製作しています。まあ、今村昌平の場合、セルフプロデュース能力も旺盛で、ついに独立プロダクションを設立してしまいますが、もっとも充実していたのは日活で大塚和のバックアップがあった時代の作品でしょう。
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浦山桐郎と日活青春映画路線の開拓

■一方で今平の弟分だった浦山桐郎を1962年『キューポラのある街』で監督デビューさせ、数々の映画賞を独占します。個人的には、日活撮影所のスタッフではなく、若杉光夫と民芸映画社のスタッフで製作し日活で配給した1961年『大人と子供のあいの子だい』1963年『サムライの子』などは、今日もっと評価されるべき小品だと思いますが、世間一般的には今平・浦山の育ての親として記憶されるでしょう。その後も浦山は『非行少女』『わたしが棄てた女』といった代表作を連打します。なかでも『キューポラのある街』の成功は日活にとっても大きな財産となり、ここから吉永小百合浜田光夫の青春映画路線が誕生し、日活映画のカラーにもなります。(若杉光夫の『ガラスの中の少女』の製作も大きかったはずですが)
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熊井啓の社会派映画を支える

■日活で活躍する以前から縁がある熊井啓はデビュー作『帝銀事件 死刑囚』こそ他のプロデューサーの手によるものだが、意欲作『日本列島』は大塚和が原作小説を提示して熊井啓が食いついたものです。
■『黒部の太陽』は石原プロ三船プロの共同製作ですが、五社協定の妨害の中でキャスティングにも苦労しますが、劇団民藝の協力を得ることで一気に配役が軌道に乗ります。このときの劇団民藝側の窓口は大塚和で、一部の実景撮影では民芸映画社のスタッフも協力しています。

蔵原惟繕の新感覚映画を支持する

■ほかにも日活感覚派の巨塔・蔵原惟繕に『執炎』『愛の渇き』『愛と死の記録』といった代表作を撮らせているのも凄い。このあたりになるとリアリズム志向を超えてシュール・レアリズム志向に至っています。
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藤田敏八神代辰巳西村昭五郎で1970年代以降の邦画界に布石を打つ

■1967年には『非行少年 陽の出の叫び』で藤田敏八を監督デビューさせ、伝説的な名作『八月の濡れた砂』を1971年に製作したのも、この老紳士だったのです。しかも、1968年には『かぶりつき人生』で神代辰巳を監督デビューさせて、日活映画のロマンポルノ転向後の基幹作家まで育てているから、いやもう裏番長ではなくて、総番長じゃないかと思うわけです。
■そうそう西村昭五郎の監督デビュー作『競輪上人行状記』を世に出したのも大塚和の目利きの凄さを物語りますね。小沢昭一も代表作と自認しています。小沢昭一にしか演じられない傑作でした。西村昭五郎は日活ロマンポルノの屋台骨を支えた多作の職人監督ですが、じつはかなり筋の良い監督だったのです。
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山本薩夫と日活最後の大仕事

■日活での最後の大仕事は山本薩夫で『戦争と人間』三部作を完成させたことでしょう。大塚和は筆頭プロデューサーとして、製作総指揮にあたります。完結編では親ソ派と言われたパイプを生かして、モスフィルムとソ連軍の協力を得て大ロケーションを敢行します。日活が既にロマンポルノ路線に転向後にも関わらず、こうした破天荒の超大作が実現したのは当時の労組の組織力の賜物で、実務派としての腕の見せどころだったでしょう。ただ、山本薩夫の傑作群の中では、映画としての完成度はいささか見劣りしますね。
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芸映画社と若杉光夫の仕事

■また、大塚和は民芸映画社の社長として、民芸映画社のスタッフを使って日活の出資で映画製作を行います。前編で触れたとおり、この辺の事情は一般的には認知されておらず、普通の日活映画として扱われていますが、日活は出資で、制作母体は民芸映画社と思われます。(ただ、仕上げは日活撮影所だったらしく、編集は日活撮影所の人ですね。)
■さらに、劇団民藝に所属する職場演劇出身の、労働者出身の劇作家たちに映画の脚本を書かせます。大橋喜一、原源一といった劇団民藝所属の劇作家らが日活映画本体でも活躍します。そういう筋道を作ったわけですね。大橋喜一は『愛と死の記録』の脚本が秀逸でしたが、吉永小百合が自分のプロダクションで映画化を画策した『野麦峠』が頓挫仕掛けたときのピンチヒッターとして脚本のリライトも行っています。もちろん、大塚和の差配でした。
■民芸映画社制作の映画では、基本的に若杉光夫が監督を務めます。前編でも触れたとおり、京大生の頃から共産党員だったらしく、大映京都をレッド・パージされて劇団民藝に入った人です。社会主義リアリズム路線の人ですが、日活映画では勤労青年や苦学生を中心とした勤労青春映画を撮った人でもあります。日活で活躍するより以前に浜田光夫を発掘していて、1960年には『ガラスの中の少女』で吉永小百合とのコンビ作を撮っているので、日活映画史にとってもとても重要な監督です。吉永小百合を育てたのは浦山桐郎浜田光夫を育てたのは若杉光夫といえるでしょう。でも、両監督とも、その割にあまり厚遇されていない気がします。若杉光夫は民芸映画社の解散後、主に劇団民藝の演出家として活躍することになります。
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独立後も好々爺として大活躍

■その後も、独立プロダクションを設立して1970年『地の群れ』1975年『祭りの準備』1976年『青春の殺人者』1986年『海と毒薬』などの傑作、異色作を製作しています。
■いわゆるハッタリの多い、興行師的な豪腕プロデューサーという雰囲気ではなく、外見上も地味で実務派的なイメージで、日活の契約終了後は好々爺といった雰囲気で映画関係者に親しまれたようです。
■さて、前後編にわけて映画プロデューサー大塚和の偉業の一端を紹介しましたが、その凄さが少しは伝わったでしょうか。もっと有名になってもおかしくない人なのに、何故か忘れられているのが不思議な、見えざる巨人なのです。
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