おんな一匹、泥水すすって生きてます!『にっぽん昆虫記』

基本情報

にっぽん昆虫記 ★★★☆
1963 スコープサイズ 123分
企画:大塚和、友田二郎 脚本:今村昌平長谷部慶治 撮影:姫田真左久 照明:岩木保夫 美術:中村公彦 音楽:黛敏郎 演出:今村昌平

感想

■大正時代に東北の寒村で生まれのひとりの女が売春組織の元締めになるまでの赤裸々な半生を、戦前、戦中、戦後の日本の「激動の昭和史」との対比で、ねちっこく凝視してみせた異色作。今村昌平が実在のコールガール組織の元締めの女に取材してかきあげたオリジナルシナリオによる。

■ほとんど再現ドキュメント映画のようで、セット撮影を避けて現地でのロケ撮影が敢行されている。東北の寒村の室内場面など、モノクロ映画のお手本のような見事な照明設計だが、蛾が飛んでいるからロケセットなのだろう。特に今村昌平じしんも思い入れが深い、戦後の世相が大きく取り入れられていて、松川事件、血のメーデー事件、安保闘争、皇太子ご成婚などが主人公の性的な半生に絡む。

■『豚と軍艦』もそうだったが、それまでの作品と比べてものの見方がずっとシニカルになり、組合運動にも在日朝鮮人にも新興宗教にも皮肉で意地悪い視線を投げかける。『にあんちゃん』や『キューポラのある街』の頃にあった素朴な信念や希望から比べるとすべてのターゲットに懐疑的な描き方になっている。

■その中でも継父との近親相姦的な性的関係が執拗に描かれたり、売春宿を舞台としてその主導権抗争が起こったりするあたりは、後の『復讐するは我にあり』でそっくり踏襲されていて、姉妹作といってもいいくらいだ。実際のところ、それらのモチーフは今村昌平にとって非常に重要な何かであるらしい。血のつながらない父への娘からの性的な愛情というモチーフは、今村がしつこく描き続ける近親相姦の変奏曲である。が、だからどうなのかというところまでは映画を見ても分からない。

■おそらく、父親に対する(義理の関係の)娘からの一方的な思慕というモチーフには、父親像に天皇の姿が重ねられているのだろう。言うまでもなく、戦前、戦中において、天皇は「国民の父」であった。国民は父たる天皇を思慕し崇拝することを洗脳され強制されたが、それは2・26事件の顛末をまつまでもなく、強烈な片思いの構図となる。このあたりの図式は『復讐するは我にあり』で三國連太郎倍賞美津子の関係に鮮明だった。

今村昌平はその頃少年であったが、自分がもし女であったなら、その片務的な、片思い的な崇拝は、父である男と性的に結びつきたいという思いに変ずるのではないか、そう妄想したのだろう。俺が女であったなら、不甲斐なく頼りない父に若い身体を抱かせることもできるし、乳を含ませて力づけてやることもできるのに。きっとそう妄想したのだろう。そうした少国民の屈折した心情は、大概、変態的な妄執に見える。

■だから、今村の描く「不甲斐ない父親」「頼りない父親」は、ときに知的障害者であったり、宗教的偽善者であったりするのだ。そして、このクニの原初的な成り立ちは、煎じ詰めればそうした近親相姦的な、性的な関係性に遡れるのではないか。きっとそう考えたのだろう。そもそも日本神話によれば神々の国産みからして近親相姦によっているのだから。

■後半はコールガール組織の元締めになりながら、中小企業の社長の妾として生きる姿、そして田舎から上京してきた娘までが社長のお手つきになってしまう絶望が描かれるが、その娘は社長や母よりもさらにしたたかな生命力を秘めていたというお話になっている。中小企業の社長を演じるのは東宝から出張ってきた河津清三郎で、これは明らかに今平の師匠川島雄三の『洲崎パラダイス 赤信号』の役柄をそのまま踏襲したものだ。あの映画ではもっとさらっと描かれたが、本作ではエロ社長の生態がこれでもかどぎつく描かれる。そして娘役の吉村実子が『豚と軍艦』に引き続き、戦後派世代としてはつらつと登場して、清新な風をもたらす。

■そもそも、左幸子河津清三郎の関係は、『赤信号』の新珠三千代河津清三郎の関係を下敷きにしており、『赤信号』の蔦枝という女の実相はこんなものじゃないという今村の思いが、モデルとなる実在の人物に対する取材を敢行させたのではないか。『赤信号』の蔦枝の、洲崎に流れ着く前の半生を描いてみたいというのが本作の発想の根本ではないか。

■姫田真左久のキャメラも重厚なフィックスから柔軟な超望遠まで機動的な大活躍で、ところどころにお馴染みのスペクタクルなロケ撮影を織り交ぜて絶好調。ほんとにモノクロ時代の姫田は凄い。東宝東映といったメジャー他社では、この時代まだステージ撮影が中心で、劇映画において大規模ロケでリアルタイムの日本の姿をドキュメンタルに描くという切り口をまだ手に入れていない。その点に関して、明らかに日活は最前衛であったのだ。時代がかったお話のモノクロ映画では宮川一夫が天才的な画作りを見せたが、現代劇においてこれほどビビッドな映像を造形したのは、姫田真左久の独壇場であったと思う。

■以上のような今村昌平の異常な妄想のありようは面白いと思うが、日本の、というか山間僻地の性的な乱脈さや閉鎖性に対する執着が、今平の妄想を超えてどれほどの普遍的な意味を持つのかは、正直見えないし、腑に落ちない違和感が残る。人間模様としては抜群に面白いし、天才的に馬力のある演出力、表現力でついつい見いってしまうのは確かだが、何が描きたかったのかは、未だよく分からない。社会の底辺に息づく、おんなの逞しい生命力の讃歌だって?ウソウソ、そんな映画に見えはしない。
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