純愛映画というよりも、立派な異常心理映画!『ガラスの中の少女』

基本情報

ガラスの中の少女 ★★★
1960 スコープサイズ 65分
企画:大塚和 原作:有馬頼義 脚本:青山民雄 撮影:井上莞 照明:内藤安三郎 美術:岡田戸夢 音楽:木下忠司 監督:若杉光夫

感想

■企画が民藝映画社が本籍の大塚和で、制作スタッフも日活本体ではなく民藝映画社のスタッフなので、実質的には民藝映画社の作品。実際、日活の公式HPでも製作:民芸となっている。吉永小百合の初主演作品で、いわゆる二本立て興行の添え物、SP映画だが、好評だったようで、この後吉永小百合は日活の純愛路線を担ってゆくことになる。

■大学教授の娘とスラムに住む町工場の工員が再開し純愛を育むが、娘の純潔に異常な執着を示す娘の父が猛反対する。父親が実の父ではない事を知り、娘を抱くその手に不純な匂いを嗅ぎ取った娘は工員を睡眠薬心中に誘う。。。

■という不思議なお話で、原作が有馬頼義の短編小説なので、かなり映画用に改変されている可能性がある。それにしても実に変な映画で、一応純愛映画ということになっているが、だいたいこの手のお話は心中しなければならない必然性が十分に描かれないのが弱点となる。例えば内田吐夢の名作『花の吉原百人斬り』だったら、無理心中しなければならない心理的な必然性がこれでもかと具体的に念入りに描かれているが、いわゆる純愛映画における心中は理由が希薄な場合が多い。後の『泥だらけの純情』はなかなかの佳作だが、それでもラストの心中の下りはまったく腑に落ちない。

■本作の裏の主人公、というか真の主人公はどうみても継父の信欣三で、この男の異常心理映画として見ると、逆に腑に落ちるのだ。信欣三のお得意の憑かれたようなファナティックな演技が要所要所に配置され、娘の処女性に対する異常な執着が炙り出される。教授昇進の宴会で酔って帰って娘を抱き寄せると本能的に貞操の危機を感じて娘が身を離す場面の緊迫感も秀逸で、彼のなかに隠された継娘に対する抑圧された感情を本能的に感じ取って忌避したのだ。インテリたる父親のことだから、これによって、自分自身も美しい娘に対する秘められた感情を自覚することになったはずだ。

■更に奇妙なのは、娘が工員と心中したことを知って何をいうのかと思えば、なんで心中なんてしたのかという疑問や嘆きもさることながら、心中するくらいだからもう純潔じゃなかったんだろう、残念だという、独り言のように妻に語る変な述懐なのだ。娘が死んだことよりも娘の純潔の方が気にかかる異常な継父、というのが本作の最終的なテーマを物語ることになる。そうした継父の異常な純潔信仰、処女信仰が彼女らを追い詰め、そうした世間の味方に対する反抗として、純潔なままの死を選ぶという、これまた狂信的なテーマ性を浮かび上がらせる。しかし、それは継父だけの異常心理なのか?その背後には、世間とか封建制とか家制度といった曖昧な因習の異常さがあるのではないかと問いかける社会派映画でもある。

■浜田光昿(光夫)の住む家のあたりの描写もさすがに民藝チームによる日活映画で、ほとんど江戸時代さながらのリアルな長屋風景が展開する。精細なロケ撮影も秀逸だし、セット撮影も非常にレベルが高い。ほぼスラムに近く、バラック長屋が立ち並び、狭い路地が伸び、上水道も整備されていない。父親は中風の”よいよい”で、頭はボサボサでほとんど廃人同然という最底辺の庶民生活がリアリズムで描かれる。父親は日本人ではないのかもしれないし、あるいはそこは被差別部落かもしれない。後の『泥だらけの純情』はこのあたりの社会的底辺の貧困描写が圧倒的に負けている。さすがに民藝映画社の若杉光夫は貧困描写には抜かりがなく、短いシーンの中に視覚的なディテールを散りばめて、貧困のリアリティをさり気なく雄弁に表現してしまう。場面によっては変にカットを細分してしまうので違和感があるが、こうした場面の描写は流石に新劇仕込でお手のものなのだ。

■中編映画だが、また中編映画故に、純愛映画の甘やかさではなく、異様な毒を秘めたドラマとして心に残る。

■ちなみに、脚本の青山民雄はプロデューサーの大塚和のペンネームと判明した。その由来は、当時劇団民藝が青山にあったためだろう。
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