日活リアリズム映画路線の父・大塚和と民芸映画社の世界(前編)

【Updated 2021.03.22】

はじめに~コロナ禍での発見~

新型コロナウイルス感染症の文字通りの世界的パンデミックに明けて暮れていった2020年。パンデミックは来るよ来るよと言われていたものの、なんとなく自然災害の多発に心を奪われていた矢先に、不意打ちを食らわされました。生活様式も大きく変化し、一年の大半を巣篭もり状態で過ごすことになってしまいました。でも、そんな中でひとつの大きな出会いがありました。

■コロナ禍の巣篭もり状態のさなか、昨年5月頃に日活映画を再発見したのです。大きなきっかけは吉永小百合の『愛と死の記録』を観て感動したことでした。これまで東宝東映大映の映画を中心に観てきたので、日活映画は、裕次郎はもちろん大好きだし、映画の面白さに目覚めたのは日活ムードアクションだったわけですが、なんとなく全体像が把握できていなかった。裕次郎や旭、そして清順というイメージで、吉永小百合なんて、過去の遺物というくらいの認識でした。むしろ、日活を離れてからの小百合映画はほぼ構観ているのに、ですよ。

■しかも、なぜかアマプラまで最近、マイナーな日活B面映画を大量にリリースしてくれたおかげで、1960年代の日活映画を集中的に観ることができました。そして裕次郎や旭のA面映画だけでなく、二本立ての添え物、あるいは盆や正月のピーク時ではなく、端境期に地味に公開されるモノクロ映画などの、いわばB面映画に、非常に得難い魅力があることを知りました。なぜなら、そこには当時の若い労働者やその予備軍としての子どもたちの姿をリアリズムで描く映画が系譜を形作っていたからです。そして、日活には大塚和というプロデューサーがいて、裕次郎や旭が牽引する日活映画の番線のなかにあって、非常に貴重な路線を敷いたことがわかってきたからです。

新生日活映画の誕生

■そもそも日活映画は戦前からの歴史を持つ日本最古の映画会社のひとつですが、戦中に新興キネマなどと合併させられて一旦社歴が途絶えます。このとき誕生したのが大映です。それが戦後の1954年にやっと念願の映画製作を再開します。もともと制作部門として新東宝を吸収しようとしたものの東宝から横槍が入って、独自製作路線に舵を切ったようです。このときに率先して動いたのが日活映画のドン、江守清樹郎常務(当時)ですね。

■そのときには日活映画は当然ながらスタッフもスター俳優もいないので、既存のスターやスタッフを各社から高待遇で引き抜きます。このとき既存の映画会社5社で締結した血の連判状が悪名高い「五社協定」ですね。当時の日活はホテル事業などで資金には余裕があったとみえ、撮影所は調布に最新鋭のピカピカなものができましたが、人材がいないので制作機能も万全ではありません。そのため当初は新国劇などの演劇団と組んで時代劇を製作する苦肉の策でしのぎますが、興行番線として長期路線を敷くまでには至りません。再開日活初期の新国劇映画はかなりレベルが高いので、それはそれで有意義なのですが、要は儲からなかったらしい。

劇団民藝との提携

■そこで提携先を変えたのが、劇団民藝民衆芸術劇場(第一次民藝)として1947年に設立され、いったん解散、1950年に劇団民藝(第二次民藝)となっています。いわゆる”民芸品”の民芸ではなく、民衆芸術を標榜している劇団なのです。そこには宇野重吉滝沢修北林谷栄が在籍し、しかも宇野重吉は政治力もあり面倒見も良いし、映画界のこともよく知っているので映画会社としても自社俳優陣のメンターとして期待したことでしょう。このときに日活に契約プロデューサーとしてやってきたのが大塚和という人です。もともとは映画雑誌の編集などを行っていた人ですが、1951年に宇野重吉と知り合って劇団民藝に参加しています。1955年から劇団民藝に本籍を置いたまま日活の契約プロデューサーとなり、1957年には民芸映画社が設立され社長に就任しています。そして、同社の社長のまま日活では契約プロデューサーとして長らく活躍することになります。そういう意味では、ちょっと風変わりなポジションの人なのですが、日活では児井英生などという大物独立プロデューサーとも契約しているので、日活方式といえるでしょう。

■そして劇団民藝の出身だけに、現実社会の厳しさや資本主義社会の歪をリアルに描く作風を日活にもたらします。社会的な問題を扱った映画や、若いブルーカラーの労働者階級に着目した青春映画=勤労者映画や、若者を善導しようとする教育的映画などを企画して製作しました。裕次郎や旭たちの「荒唐無稽な」活劇シリーズをA面と考えれば、添え物的なB面映画といえるかもしれません。その多くがモノクロ撮影だったことからも、低予算映画が多かったのは事実です。

■そのため、当初は同じ民芸映画社の若杉光夫(もともとは大映京都で黒澤明の助監督などを務めていたがレッド・パージされた人)を監督に据えて、上記のような真面目な、しっかり地に足のついたリアリズム志向の映画を作っていたのですが、徐々にその守備範囲を広げ始めると、一気に日活映画の裏番長、いや日活リアリズム路線の父として存在感を増してきます。


劇団民藝映画部とはなにか

■さてそもそも民芸映画社とはどんな映画会社だったのでしょうか。もちろん、配給網を持つ映画興行会社ではなく、映画の製作を行う独立プロダクションだったようです。もともとは劇団民藝が映画部と言うセクションを持っていて、早くも1952年には次のような映画を製作しています。『ある夜の出来事』(監督:島耕二)『花荻先生と三太』(監督:稲垣浩)『 母のない子と子のない母と』(監督:若杉光夫)。いかにも民藝タッチですね!

■以上は劇団民藝映画部としての製作のようで、特に『 母のない子と子のない母と』では、すでに大塚和や若杉光夫が中心メンバーとして活躍しています。1955年には『石合戦』(監督:若杉光夫)という映画を製作していて、これで浜田光夫が子役としてデビューしています。民芸映画社の前身としての劇団民芸映画部の活動は、大塚和が劇団民藝に参画した後の1952年から民芸映画社として独立する1957年までの期間と推測されます。

日活の外部プロダクションとしての民芸映画社

■1957年の民芸映画社の設立は、そもそもその前に成立した日活との提携を土台にしたものと思われます。日活も1956年の石原裕次郎という大スターを発掘して興行成績もうなぎのぼりの隆盛の時期、当時の二本立て興行は日活撮影所の供給能力を圧迫していたでしょう。そこで日活撮影所本体以外にも制作プロダクションが必要となり、提携先の劇団民藝映画部を民芸映画社に格上げしたという流れではないかと想像されます。このあたりは今の所裏付けが取れていませんが、十分にありうる話だと思います。その中心人物は大塚和で、制作部隊の中心は演出家の若杉光夫ということでしょう。

■当時の邦画他社でも同様の動きがあり、映画製作体制の拡充のため、つまり二本立て興行を支えるために、東映第二東映を設立し、東宝は東京映画、宝塚映画などの製作会社を抱えていました。その意味で、日活本体に対して民芸映画社の存在感は、実は非常に小さいものです。第二東映や東京映画はそれなりに映画史に鮮烈なイメージを残して消えましたが、民芸映画社なんて、じっさい去年まで認識がありませんでしたし、これまで積極的に語られることもありませんでした。

■例えば東宝の場合、東京映画の作品は、ちゃんと映画のタイトルに東宝配給、東京映画製作とクレジットされるので、明確に区別できるのですが、日活の場合はあくまで日活株式会社製作としかクレジットされません。それは実制作は外部プロダクション、外部撮影所であっても、製作予算は日活が支給しているという意味だったようです。そのため、主に1960年代の日活映画のなかには、日活撮影所本体で制作された映画と、外部撮影所を使用して民芸映画社が制作した映画の二種類が混在することになります。

日活HPによる民芸映画社の発見=発掘!

■これまでそのことは大塚和の製作したフィルモグラフィーとか若杉光夫フィルモグラフィーを見るとなんとなく認識できたのですが、最近確証が出てきました。それが日活の公式HPです。日活HPの日活作品データベースで検索すると、例えば若杉光夫の撮った『ガラスの中の少女』『サムライの子』については「製作:民芸」「製作国:民芸」と明確にクレジットされているのです。つまり、日活社内に残る正式書類では明確に制作主体が区分されていたわけです。これまでJMDBを見ても、キネ旬のデータベースでも区別できなかったことが、日活によって公式に証明されたわけです。個人的には大きな新発見でした。

■でも注意が必要なのは、大塚和が企画した映画が、すべて民芸映画社の製作ではないということ。というか、民芸映画社での受注はむしろ例外で、ほとんどは日活撮影所本体で製作されています。その区別が日活HPによって可能になったということですね。若杉光夫の監督作は基本的に民芸映画社の制作と考えれば間違いないようです。

■ただし、大塚和は『戦争と人間』三部作の製作が終わった1973年に日活との契約を終了して、同時に民芸映画社を退社しています。そもそも1969年に「えるふプロダクション」を設立して活動していたので、1969年から1973年までは民芸映画社の社長&えるふプロダクションの何か(代表?)&日活契約プロデューサー(さすがにロマンポルノは製作していないが)という兼務状態だったわけですね。

後編に続く

■さて、意外と長くなってしまったので、前編はこれにて終了です。前編では日活番線の中の民芸映画社の活動を再発見したわけですが、いまだ詳細は不明です。でも契約プロデューサーとしての大塚和の作品歴だけは明確に把握できます。後編で大塚和のプロデューサーとしての偉業の数々を時系列で展開してみたいと思います。その中には、民芸映画社の制作した、忘れ去るには惜しい作品もいくつか含まれます。

■また民芸映画社の詳細については、いずれ資料を発掘してみたいと思います。まずは大塚和の死後に遺族によって纏められた私家版の『映画と人生』を入手したいと思います。また劇団民藝は機関紙『民藝の仲間』をずっと発行しているので、その中に映画について触れられた記事もありそうな気がするのです。(なぜそこまでこだわるのか、我ながら不思議な気がするのですが。。。)

参考

芸映画社社長だった大塚和プロデューサーのご子息が運営されているHPがあります。大塚和は1975年に綜映社を設立して黒木和雄の『祭りの準備』などを製作していて、現在はご長男の大塚汎(ひろし)氏が受け継いで活動中のようです。大変参考になります。
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