■『冥途の飛脚』は、通しでお話を読むのは始めてだけど、これは非常にできが良いですね。内田吐夢が『浪花の恋の物語』で映画化していたけど、こちらはあまり印象がない。
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■今回、近松の浄瑠璃の現代語訳を読んで気づいたのは、近松の作劇の肝は、実在の事件に基づいた主人公の男女ではなく、その周囲の友人や家族たちの気持ちを描くことにあるということですね。例えば、心中する若い二人の気持ちは、正直単純でたかがしれている。そんなに複雑な綾があるわけではない。言ってしまえば、若さゆえの愚かな短慮である。しかも、作者の近松はすでに老年なので、若いものがすることなど知れている、或いは理解できないと割り切っている。そのかわりに念入りに描くのは周囲の人間たちで、年かさが行ったり、愚かな主人公たちを客観的にみることができる友人などの、世知に長けたゆえの、あるいは肉親ゆえの心持ちを念入りに描くし、そこがすべて悪い方に転がって、悲劇に至る、その残酷さが泣ける見せ場になっている。
■晩年の作『女殺油地獄』もそのことは通底していて、何しろ平均寿命が35歳前後(!)の時代に69歳で書いた作品。人妻を衝動的に惨殺する若者の気持ちなんて、はなから知らんよ。実際、あったらしいけど、年寄りの理解の域を超えているから、そこは突っ込んで書かないよ。でも、その周囲にいて、不祥事が起きないように色々と気をまわしたり、事件になれば大きな影響を受けざるを得ない大人たちの無念の気持ちの綾は、手に取るように、痛いほどよくわかるから、そこのところを念入りに劇化するよ。親の顔が見たい、と誰しも思う強殺事件の、その親達の事情や気持ちを想像すると、わしも居たたまれなくて泣けてくるんだよ、というスタンス。だから、与兵衛の犯行に至る心理的な動きとか、心理的な一定の整合性にはあまり気を使っていない。実際に起きてしまった事件だし、そこに感情移入させようとは考えていないからだ。そこではなくて、忠兵衛の継父や実母の息子に対する親バカな想いやりが執念深く描かれ、やはりそこが泣かせる肝になっている。
■与兵衛がお吉を殺す心理的な背景には、彼女に対するなんらかの慕情があるはずだけど、近松はそこにあまり深入りしない。なんとなく、二人の関係性で匂わす程度。あえて曖昧にしてあるのだと思う。なので、与兵衛の演者は書かれていないことまで演じることになり、難役だと思う。(ただし、歌舞伎版は他の作者によっていろいろと補筆してある模様)