´60年の挫折と、来たるべき´70年の間に死んだ、森田ミツという女!『私が棄てた女』

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基本情報

私が棄てた女 ★★★☆
1969 スコープサイズ(パートカラー) 116分 @DVD
企画:大塚和 原作:遠藤周作 脚本:山内久 撮影:安藤庄平 照明:岩木保夫、松下文雄 美術:横尾嘉良、深民浩 音楽:黛敏郎 監督:浦山桐郎

感想

■ある読者の方のご厚意によって、寡作で知られる浦山桐郎の三作目を観ることができました。深く感謝します。

■二作目の『非行少女』は未見だけど、『キューポラのある街』に比べると随分演出家として成長したと素直に感じる。『キューポラ』ではまだ、兄弟子・今平の力も借りて丁寧に楷書で書きましたって初々しい風情だったけど、本作は自分の中に抱えた暗い屈託を俳優陣に無理を承知で仮託した、暴力的ともいえる、ギリギリのせめぎ合いが感じられる映画だ。聞きしに勝る異色作で、色んな意味で、他の監督には絶対撮れない狂った映画であることは確かだ。

■主人公には60年安保後の挫折感の中で田舎から出てきた素朴な娘ミツと関係して棄てた過去がある。専務の姪との結婚話が進む最中にミツと再会した男は再び関係を結び、ミツを愛していることを自覚するが…というストーリーラインは普通のメロドラマである。原作では、ミツはハンセン病の診断を受けることになっているが、本作ではその要素は完全にオミットしている。ただ、過去の回想場面が全面緑や黄色に着色されているという、前代未聞のパートカラー設計で観客の意表を突く。

■単純に見れば、ミツをいじめ抜いて、惨めな彼女に観客の感情移入を誘う作り方であり、女優をしごきぬく浦山メソッドの成果は絶大で、小林トシエ演じるミツの人間的な魅力で映画は支えられている。小太りで、ドタバタ走る姿の愛おしいこと、崩れそうな表情の繊細なこと。浦山桐郎の演出家としての腕の確かさは、確かに凄いレベルだ。

■特に、ずっと辛そうなミツが無心にハツラツと嬉しそうに弾ける、浜辺でドドンパを歌い踊る場面は名シーン。ミツの不格好に走る姿を追いながらクレーンアップするとドドンパを謳う若者のグループが見えてくる場面のスペクタクル。幸福そうなミツの表情。一方でそんな田舎娘に心底軽蔑の眼差しを向ける主人公の冷めきった眼。ドドンパで泣かされるとは思いもよらなかった。

■一方で映画史的に有名なミツの転落死場面のえげつない演出ぶりは、”蛇の浦公”と呼ばれ、恐れられる浦山の人非人ぶりが遺憾なく発揮された名場面。というか、凄いとしか言いようがない。映画のなかでは無数の無様な死に様が描かれてきたが、これ以上無様で独創的な死に様は思いつかない。

■しかし、本作の一番の問題は、終盤の幻想場面で、当時も日活から切れ切れと言われたらしいが、浦山はこれがやりたかったらしく頑として認めなかった。実際のところ柄にもないことをやるもんだから、発想が貧困で観ていられないのだが、本人は拘泥したらしい。当時、ATG映画などで幻想的な、シュールな前衛映画が作られていて時代で、俺もあれやりたいなあと素朴に思ったのだろうか。正直謎でしかないが、まるで中川信夫の『地獄』の出来損ないという感じ。音楽の黛敏郎もひどくて、地獄に落ちるカットにヒューンみたいな通俗な音楽をつける。この人、時々ふざけているよね?

■主人公河原崎長一郎のドラマとして終わるのかと思いきや、ラストでは浅丘ルリ子がミツを受け止めて終わるのも異様で、たしかに彼女の女としての生き方の問題も描かれているので、最終的に女性映画に見えるようになっている。彼女の生き方の模索の中で、ミツを内面化してしまうことで、主人公に対するテーマ的な乗り越えを強く表明している。以下のルリ子の生硬なナレーションはオリジナルの脚本には無いものらしい。

「ミッちゃん、何故、あなたは死んだのか。何故、あなたは生き続けて私を苦しめなかったのか。私はもっとあなたを知るべきだったのだ。ミッちゃん、今、私はあなたを殺したものをハッキリ見つけて、そのものと闘っていかなければならない。愛するものを一生愛し続けながら。」
(映画より採録

■しかし、そもそも浦山は山内久に以下のように注文しているから、最終的にルリ子の生き方にこの映画が収斂することは当初からの構想であったことがわかる。

浅丘ルリ子の役をちゃんと書いてくれた、これを芯として考えて最後まで書いてくれってそれだけ言われましたね。」
桂千穂編・著「にっぽん脚本家クロニクル」の山内久の項より)

確かに図式としては理解できるが、終盤に幻想シーンが入り込むことで妙に観念的になってしまうのが、誤算だった気がする。また、山内は日活や一般観客と同様にラストシーンに不満があるとも述べている。

「棄てた女は死んでしまうが、拾った女が代わりに強くなって、今平さんの描く女のフテブテしさとはまた違った、ピカリと光る良い女に変わってくる、それを描くのが狙いだったのにそれが描ききれていない。」
桂千穂編・著「にっぽん脚本家クロニクル」の山内久の項より)

■単純に考えれば、ミツは全学連世代の先鋭的なエリート学生たちが運動のために連帯しようとして結局は運動が挫折することで、見棄てた労働者たちの姿であろう。でも主人公は社会に出て社畜になることで、大学同期で他業種でバリバリやっている江守徹と比較すれば、自分も決してエリート階級ではなく、労働者側であったことを自覚することで、あの頃の記憶にしがみついたまま時間が止まったようなミツと呼び合ってゆく。そして専務の姪であるルリ子にぶら下がって生きようとしていることを改めて恥じ、幻想のなかで、目前に迫りくる70年安保の仮想敵と捨て身で闘う自分自身を夢想する。

■だが、現実には既に70年安保の挫折を用意していた1969年、階級を超えた連帯=真の愛はどこにありうるのか?そのことがルリ子の中に内面化され、前景化してくるのだ。それは明らかに、図式的で教条的な絵図面の引き方だが、浦山の狂った映画的情熱が図式劇を超えた自律的な運動を映画にもたらしているところに本作の値打ちがある。その意味で、加藤武のキャラクターが非常に重要で、60年安保でミツのようにエリートに棄てられた労働者階級との、未来に向けてのリユニオンが、この物語の終盤のテーマ回収として必要になるからだ。あまりに図式的で、説得力があるかどうかはかなり疑問だが。

■ルリ子にぶら下がってのめのめと生きながらえようとする主人公は、斜陽の日活にかろうじて繋がってあまり映画も撮らずに生きている浦山じしんの自虐的な姿だろうし、ルリ子は日活そのものの象徴として登場している。でも、本当は『非行少女』あたりのリアリズム路線のほうが資質に合っていると思うけど。(未見だけど!)

■本作は映像技術的にも色々と問題が多い映画で、回想場面のどぎつい着色もちょっと常軌を逸している。正直、画面全体が緑色の映画を観ていると吐き気がしてくる。でも、それが演出意図で、主人公の辛すぎて思い出したくもない過去を観客に生理的に体験させるわけだろう。現在の場面はモノクロなのだが、パートカラー構成としたため、モノクロ場面も通常の陰影と階調の深い高精細なモノクロ撮影ではなく、カラーフィルムで撮影してモノクロに焼いたか、モノクロ撮影でカラーポジにモノクロでプリントしたかで、色調も陰影も調子が浅くて単純に綺麗でない。さらに、最終場面では通常カラー場面まで登場して、技術屋泣かせの特異仕様である。これではニュープリントも焼きにくいし、リバイバル上映もやりにくいだろう。
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