怪談雪女郎
1968/スコープサイズ
(2001/7/6 V)
脚本/八尋不二
撮影/牧浦地志 照明/黒川俊二
美術/内藤 昭 音楽/伊福部昭
監督/田中徳三
雪深い飛騨と美濃の境に伝説として語り継がれる雪女(藤村志保)と遭遇し、取り殺すべき所を決して他人には漏らさないことを条件に見逃された若い仏師(石浜朗)は師匠の老妻(村瀬幸子)の遺言のとおり雨宿りを求めて知り合った娘ゆきと婚姻し、子を設ける。ゆきの美しさに横恋慕する好色な地頭(須賀不二男)に盗伐の濡れ衣をかけられるが、ゆきは雪女の持つ特殊な力で熱病に苦しむ守護の子を救って得た報酬を渡して決着する。しかし、逆恨みした地頭に無理矢理犯されそうになった時、雪女の正体を露にし、地頭を取り殺してしまう。国分寺の本尊の造仏に専念する仏師は仏につきまとう暗い影に悩まされ、遂にあの夜の出来事を妻に告白してしまうと、雪女は一旦は約束どおり取り殺すと迫るが、夜泣きする子供の姿に人の母親としての心を取り戻し、泣きながら山に帰るのだった。その表情に仏師は探し求めていた慈悲の心を感じ取るのだった。
雪女という妖怪キャラクターにたった1作で完全無欠の表現を完成させた怪奇映画の傑作。怪奇映画、怪談映画というよりも、日本昔話的な民話の世界を大映京都撮影所の持つ時代劇の資産を使って映像化した「大魔神」の系列に位置する映画と見る方が正しいのではないかという気がする。
森一生の「四谷怪談・お岩の亡霊」で稲野和子の演じた極限の怖さと対極に位置する完璧な美が藤村志保によって演じられる。そのデザイン、メイク、美術、照明、撮影どれをとっても雪女という希有の妖怪を表現していきなり完璧な表現様式を産み出したことは奇跡といっても過言ではないほどだ。
冒頭の樵小屋でなんの罪もない老仏師を取り殺すシーンからして、否の打ち所のない完璧な演出で、焚き火しかない漆黒の空間が雪女の登場で白く凍りつき、それによって部屋全体が白く明るく浮かび上がって幻想的な様式美を形作る照明設計には何度見ても舌を巻くし、白を基調とした空間の所々に紫の色彩を加えることで、モノトーンの空間に奥行きを出す色彩設計の独創性にも驚かされる。単純な白塗りによってここまで異形の者になりきることができる藤村志保の役者としての特異な資質にも驚嘆し、岸田森が白塗りで命なき吸血鬼になりきって孤高の高みに登ったことに匹敵する映画史的な事件であろう。
守護の嫡男を看病するシーンでは白地に黒の山々が描かれた屏風の色彩が反転して雪女の正体を現すシネスコの横長のフレームを見事に様式的に使い切った美術設計も鮮やかで、大魔神と雪女を文字通り無から創造してしまった内藤昭の美術デザイナーとしての才能はジャンル映画の作り手として、もっと注目される必要があるだろう。
そして、プログラム・ピクチャーの枠の中で「眠狂四郎女地獄」「秘録怪猫伝」といった大映京都を代表する耽美的な時代劇を産み出していった田中徳三の耽美派の映像作家としての資質が最も顕著な形で横溢したのがこの作品であり、牧浦地志のキャメラも他の数々の傑作に比べれば特別に傑出した作業ではないにしろ、当時の日本映画界ではトップキャメラマンであった宮川一夫の同時期の作品に比べても決して引けをとらない出来映えである。キャメラマン牧浦地志の仕事こそ、その質量からして当時の大映京都の創造的な中心点であったはずで、もっと正当な評価を受けるべきだ。
そして、このシンプルな物語の脚色を「大魔神」「妖怪百物語」等の吉田哲郎ではなく、その師匠に当たり、時代劇の神様伊藤大輔の盟友でもある大ベテラン八尋不二に託した制作者の慧眼に敬意を表したい。雪女の伝説に託して、女の無限の優しさと無明の恐ろしさを寓話としてかくも簡潔に語り尽くした構想力は到底真似できるものではない。