基本情報
妖怪大戦争 ★★★
1968 スコープサイズ 79分 @アマプラ
企画:八尋大和 脚本:吉田哲郎 撮影:今井ひろし 照明:美間博 美術:太田誠一、加藤茂 音楽:池野成 特殊合成:田中貞造 監督:黒田義之
感想
■ウルの遺跡から復活した西洋妖怪ダイモンが何故か日本へ来襲、伊豆守に取り憑いて神棚や仏壇を打ちこわし、若い血が欲しいと所望したことから、娘や子どもたちが犠牲に。かろうじて難を逃れた子どもたちは崩れた橋の袂に棲む妖怪たちに助けを求める。。。
■たぶん2度ほど観ているけど、ずいぶん傷んだプリントだったはずなので、褪色やコマ飛びなどのないきれいな状態で観るのは初めてかもしれない。改めて観ると、なかなかしみじみと気持ちのいい映画で、意外と筋がいいので感心しました。大映京都の映画職人のおじさんたちの子どもや子供心に対する情愛や慈しみを感じさせるからですね。
■このクラスの大映映画の脚本は本当に大筋だけで、ドラマらしいドラマがないのが定番で、東映ならもう少しドラマを仕込むところだけど、大映京都のドラマツルギーではこれくらいでOKらしい。大御所の八尋不二がそんな感じだったからね。本作も、悪代官の所業で虐げられる子どもたちをもっと頭から点描しておけば、スムーズに後半につながるのだし、今日のドラマツルギーではそうするけど、当時はまだそこまで成熟していない。ただ、強敵を倒すのに、ちゃんと妖怪たちが協力して、自分の特殊能力を持ち寄って組み合わせ、敵の弱点をつく戦法を工夫するところはガメラにも通底する大映特撮の偉いところで、デウス・エクス・マキナに頼らない作劇は本当に立派なので、お手本にすべき。理詰めな展開で観客を魅了した平成ガメラですら、最後はなんだかよくわからない強力新兵器で決着を付けないと観客に受けないでしょ、という謎の信念で締めくくられる始末なので、昭和ガメラにしろ、妖怪シリーズにしろ、怪獣や妖怪たちに対する作り手の愛の深さ(むしろ畏敬の念といってもいいかもしれない)にはホントに驚嘆するんだけどね。
■吸血代官に拐かされそうになった半裸の子どもたちを見て、どうしたんだい、なんで泣いてるの?とやさしく声をかけるのがろくろ首のおばさん(毛利郁子)とか二面女のおねえさん(行友圭子)とかで、特に泣かせる場面ではないけど、このシーンでグッと来る人は多いのではないか。妖怪おばさんや妖怪おじさんたちの人間以上の情の深さに泣かされるからだ。かれら都市妖怪たちは、深い森や峡谷などに棲むのではなく、崩れかけの橋の袂の草叢に隠れ住んでいる。古今東西、橋の下に棲むのは社会の最下層の民、社会的最弱者であり、無宿者、被差別の民、漂白者、病人、障がい者、貧者たちだから、そもそも妖怪たちはその暗喩でもある。でも、いやだからこそ、彼らは社会的弱者たる同類の子どもを泣かせる奴は許せないし、ニッポンを侵略する外敵は命がけで駆逐する強い誇りを持っている。
■しかも橋のたものとの彼らだけで対抗できない強敵には、全国に大号令を掛ければ一致団結して外敵にあたる機動力と、圧倒的な組織力を持っているのだ。社会的弱者と侮るなかれ、ひとりひとりはか弱くても、団結と知恵と勇気でもってすれば巨大な敵、悪い権力すら駆逐することができるのだ。と妖怪たちが子どもたちに教える、りっぱな社会教育映画でもある。ということを今回改めて認識しました。『妖怪百物語』に比べると、なんてちょっと舐めてましたが、意外と深読みの効く凄い映画ですよ。
■それに何しろ妖怪なので男も女も性差はなくて、女妖怪たちも男(?)妖怪たちと同格で、自分の持つ天賦の能力を武器として強大な敵に立ち向かう作劇は、時代を何十年か先取りしていると思う。一方で人間社会では青山良彦も川崎あかねも武家社会のなかでぼーっとしているだけで役に立たないのとは対照的に、女妖怪たちは男(?)妖怪たちと同格に善戦しているのだ。そこに、今見ると作者たちの非常に先進的な意図を感じる。
■この妖怪シリーズの美点はなにしろ妖怪たちに対する作り手の深い愛情がこもっているところで、ろくろ首はほとんど毛利郁子の当て書きで、監督の指名で前作から続投してローテクなのに映画的に見事な演出で見せるし、から傘お化けの操演なんて、もちろん大映京都に専任の操演技師がいたわけじゃないけど、裏方のおじさんがそれはそれは見事なパペットを見せるわけで、障子に頭から突っ込んで手をピクピク痙攣させる場面なんて、ほんとに生きてような名演技。