『回路』

回路
2001/ビスタサイズ
(2001/2/11 京極東宝1)
脚本/黒沢 清
撮影/林 淳一郎 照明/豊見山明長
美術/丸尾知行 音楽/羽毛田丈史
VFXスーパーバイザー/浅野秀二
監督/黒沢 清

感想(旧HPより転載)

 インターネット上に突如出現した謎のサイトにアクセスした人間が次々に自殺し、壁のシミになって消えてしまう怪現象が徐々に拡がってゆく。勤め先の同僚や上司が消えてしまった女(麻生久美子)と怪現象を通じて知り合った女子大生(小雪)とともに廃墟となりつつある東京を彷徨う大学生(加藤晴彦)が出逢い、東京からの脱出を試みるが・・・

 待望の黒沢清の新作だが、正直言ってかなりきつい映画になっている。端的に言えば、その原因はキャスティングにある。麻生久美子は悪くないが映画を牽引してゆく力が見えないし、物語の核となる存在の小雪はちょっと鈴木京香に似て頼もしいのだが所々で力量不足だし、そもそも見るからにあからさまなモデル体型がどうもこうした映画にはそぐわない。そして、致命的なのが普通の大学生役の加藤晴彦の存在で、このキャスティングの失敗がこの映画の息の根を止めた。

 黒沢清の脚本にも難点があり、いまさらインターネットの接続方法等々を伊丹十三のマニュアル映画のように見せる必要はないし、小雪との出逢い方なんていくらでも考えられそうなものだ。どうも黒沢清は「CURE」「蜘蛛の瞳」「降霊」などでも明らかなように年齢的に落ち着いた夫婦の描写は異常に繊細なくせに、若い男女の恋愛描写になると途端にぎこちなくなってしまうようだ。それが小雪加藤晴彦のエピソードに生彩を欠いている原因となっているのだろう。こうした部分はやはり脚本的な限界を感じずにはいられない。いままでの黒沢清の映画がジャンルスター哀川翔や実力派役所広司風吹ジュンといった確かな基盤を持った役者達によってその観念的な世界観を支えてきていたことが今回やっと明らかになったということだろう。

 霊魂の世界が溢れだし、人工的に開かずの間を作るだけで「回路」が開かれて現世に幽霊が現れる。その部屋で幽霊に遭遇した人間は何故か自殺してしまうが、死んだ後も幽霊にもなれず虚空に漂って永遠の孤独に苛まれるというこの映画の基本ルールは確かに独創的で面白いのだが、果たしてその黒沢清の追及するその怖さがこの映画ではどれほど実現されているだろうか?いつになく説明的ではないだろうか?それは前作「カリスマ」でも危惧されたことでもあるが、このところの黒沢清はその恐怖哲学をエッセイとして映画化してはいないだろうか?

 そして、誰が見ても「マタンゴ」と「世界大戦争」にしか見えない大団円を迎えてなぜか青春映画として勝手に決着してしまう黒沢清の暴走を押しとどめるためには、是非とも脚本との兼任を止めることが必要だと考えるのは私だけではないだろう。

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