感想
■増村映画のなかでもこの映画はかなり頻繁に観ていて、4Kリマスターもあるので、それだけ有名作ということだろうけど、ずっと言ってるように、傑作ではない。増村映画としても微妙なところだし、残酷美を描いた耽美映画としても、期待外れ感が大きい。その理由を、以下のとおり記録しておく。
増村が脚本をかなり大幅に改変している
■以下の新藤兼人の著作で脚本のラストシーンを読めるのだけど、完成版の映画とはかなり変わっている。舞台設定も変わっているし、台詞も変わっている。誰の目にも明らかな「増村台詞」が増量している。
■以前から増村映画はいろんな脚本家が書くのに、なんでみんながちがちの図式劇で、「増村台詞」になっているのか不思議だったけど、やはり増村自身がかなり脚本を書き直しているのだ。助監督たちの座談会でもそのことは証言されている。撮影の前の日にこつこつ書き直すそう。
■新藤兼人は監督が勝手に脚本を直すことは嫌悪していて、山本薩夫が『傷だらけの山河』で勝手に直したのをずっと根に持っていたけど、増村にはそれがないのは、おそらくちゃんとことわりを入れたうえで、直していたからだろう。実際、増村の脚本改変は容認していたと証言している。つまり、増村は新藤兼人の脚本を直してOKの人なので、他の脚本家の書いたものも、直して当然。ということ。それだけ脚本家からも信頼されていたわけ。
■映画では、若尾文子が女郎蜘蛛の入れ墨を彫られる場面から始まって、時制が一気にポンと飛んで遡るけど、新藤兼人の脚本では時系列で書かれていたかもしれない。映画ではいわゆる「張り手型」(反対が「撫で型」)の構成になっているけど、脚本は普通に時系列ではなかったか?実際のところ、映画版の編集はなかなか巧妙なもので、何の説明もなく時制が過去に戻っていて、約30分後にやっと時制が追いつくのだけど、実になんの混乱もないので驚く。実は、これなかり上手い手だなあと感心したのだけど、増村の工夫ではないか。
増村は耽美派ではない
■そもそも増村に耽美的な残酷劇は向いてなくて、本来なら、京都組の森一生とか、田中徳三とか、安田公義とか、三隅研次が撮ったほうが、それらしくなるはず。特に耽美派と言えば田中徳三なので、新藤兼人の脚本通りに田中徳三が撮れば、もっとらしくなったかもしれない。
■クライマックスの染吉の家で展開する春雷の効果なんかも、増村だと非常にステロタイプで恥ずかしい効果であって、ちっとも凄みがないのだ。そもそも、新藤兼人の脚本だと、場所の設定が違うのだ。
びっくりするくらい低予算
■大谷崎の映画化なのに、美術装置なんか異様に簡素で、後年の秘録シリーズとそう変わらない。
■そもそも増村は大きなスケールの絵は撮らない主義で、豪華なセットを引きで撮るようなことは意地でもしないで、狭い空間で人間ばかり撮っている人なので、予算はかからない人だけど、それにしても、文芸大作には見えない小規模撮影。内容が一種のキワモノなので、B級予算で作ったのか?それにしても、きっと予算が浮いたはずだ。
■大映京都でカラー撮影で残酷映画を撮るのは、かなり久しぶりの企画で、その意味で一つのメルクマールになった映画ではないか。宮川一夫が中岡源権とこんなふうに撮ったよね、というのが、後輩たちの参照点になったのではないか。つまり、牧浦地志の『怪談雪女郎』『牡丹燈籠』とか『怪談累が淵』の殺し場がリアルで凄惨だったのは、本作のタッチを踏まえていたのではないか。特に、『怪談累が淵』のお熊殺しのシーンは、完全に宮川一夫のタッチを超えていた。武田千吉郎が『四谷怪談お岩の亡霊』で低予算のなか、かなりの攻めたルックや構図を作ったのも、本作の記憶が反響していたのではないか。
そもそもドラマになってる?
■巨匠のシナリオに文句つけますけど、これドラマになってますかね?若尾文子も長谷川明男も変化しないのだけど。おぼこな質屋の娘が妖艶な芸者に変貌しました、ならまさにドラマなんだけど、これ最初から出来上がった妖婦なので、変化していない。人間の変化=ドラマとするなら、これドラマになっていない。だから映画として弱い。
■いちばん厳しいのは、彫師の清吉の描き方で、実質的に入れ墨を彫る場面と、ラストにしか登場しない。なので、ラストの三人心中(?)の場面もまるで切実感と説得力がない。清吉のドラマがちっとも浮かんでこない。まあ、脚本を書き変えて演出した増村の資質の問題もあるけど。