感想
■日露戦争への備えとしてお偉いさんの思いつきで始まった八甲田山雪中行軍で、青森第5連隊約200名がほぼ全滅した明治の悲劇(というか軍隊の明確な不祥事)を映画化したヒット作。製作の中心は橋本プロで、創価学会系のシナノ企画と東宝は『人間革命』などの縁もあり資金やスタッフを支援したというところだろう。封切り時には観ていなくて、後にソフトでノーカット版を観たのだが、何度観ても変な映画で、なんで大ヒットしたのか謎。
■そもそも、原作小説のテーマである軍隊批判、組織論の部分がほとんどごそっと切られている。橋本忍はそこに興味があって引き受けたのだろうと思っていたが、実はそうではなく、第31連隊と第5連隊が雪の八甲田で会おうと約束して、一方は成功、一方は失敗したため、約束は果たせなかったという部分に、それは受けると考えたそう。インタビューでそう明言している。物象の軽視とか指揮命令系統の混乱とか、旧日本軍の宿痾、ひいては日本の官僚組織に弱点は、いかにも橋本忍が好んで硬派に描きそうな部分は、全く興味がなかったそうだ。実に意外な発言なんだけど、橋本忍は1970年代に完全に人が変わっていると感じるところだ。その主因は1974年『砂の器』の大ヒットなんだろうけど、それ以外にもなにか原因があったのではないか。案外1973年『人間革命』で研究したことが影響しているのではないか。創価学会の信者というわけではなかったようだが、これ以降なぜかオカルト趣味が顕著となる。本作は山岳怪談だし、『八つ墓村』は完全に因果怪談だし、問題の『幻の湖』もあるし、丑の刻参りを描く青春映画『愛の陽炎』もある。同様に大物脚本家の水木洋子が晩年オカルト沼にハマって、完全に信じている人の立場から『悪霊』という、なかなか素人には理解し難い大作(もちろん未映画化)を書いたのも、なんだか因縁めいている。
■橋本忍が製作意図で述べているのは、組織論の話ではなく、自然を征服しようとして失敗した第5連隊と、自然と折り合いをつけながら、自然の猛威を受け入れる形で小さく成功した第31連隊を対比させるところにあった。だから自然環境と人間の営みの関係を探ることが明確なテーマだった。地球の成り立ちまで遡って語るその製作意図には明らかに『日本沈没』の執筆で得た地球物理学とか気候変動の知見が下敷きになっている。だからこそ東宝スタッフで森谷司郎監督だったわけ。自然環境の猛威と人間の関わりを組織論的な観点から描いた原作小説の、組織論の部分を捨象して映画化したのだ。その意味で、本作は『日本沈没』の姉妹映画ともいえるのだ。
■ただ、完成した映画ではそのことはあまり明確でなくて、音楽映画になってしまった。第5連隊と第31連隊の違いは、やはり大隊長(三國連太郎)の横やりと組織編成や準備不足に見える。でもそれにしては描き込みが足りないので、中途半端に感じるのだ。大隊長も単に自害するだけで、何も反省点が描かれない。ラストの、生き残ったものも、結局日露戦争でほぼ全員死んだというテロップも、特に反戦を訴える意図などなくて、事実を単に示しただけだと、橋本忍はビックリ証言を残している。
■橋本忍が最も残念に感じたのは、原作小説にはなくて脚本上の創作部分。一番しんどいときに何を考える?という問いに、神田大尉(北大路欣也)は子供の頃、故郷で遊んだ四季の風景が何故か浮かんでくると言うと、徳島大尉(高倉健)は、オレにはそんな思いは無いなあ、もっと具体的に次は何をしようか、どうしようかと考えるだけさと答える場面が序盤に置かれていて、分かりやすい性格描写だなあと思いきや、クライマックスで回収するつもりの伏線で、そんなことを言っていた徳島大尉が一番つらいときに、自分の子供時代を回想することになるという仕掛けを置いていたのに、場面が離れすぎていて観客にわかって貰えなかったことだった。「小返し」をしておけばよかったと述懐しているけど、この場合の「小返し」は、場面のリフレインのことだろうか。このように、橋本忍は、原作の叙事的な描写ではなく、叙情的な描写に再構築している。
■でも一番ビックリするのは、クライマックスの山岳怪談の件で、もちろん原作小説にはない趣向。この場面など、この映画が叙事ではなく、叙情詩であり、もっとメンタルな物語であることを示している。その意味で、この映画を観るときには、予め橋本忍だからガチガチの硬派な組織批判や権力批判の映画に違いないという予断を捨てる必要がある。
■つまり、自然環境や自然風土と人間の心の動きをテーマとした映画であって、かなり明確に『日本沈没』の姉妹編でもある。日本沈没という地球規模の自然災害を人智で押し止めることはできないけど、その巨体な天災にすら寄り添って、やがて所与の条件として受け入れながら人間は生き続けるしかないのだ。それは第5連隊の自然の猛威に対する姿に通底している。そう描かれるはずだった。その意図は橋本忍と森谷司郎に共有されていただろう。でもそのことは観客に十分に伝わらなかった映画と言えるだろう。
■正直、もっと別の描き方があったはずだと思う。まだ自然=神でもあった明治期の人間の感性などをもっと盛り込んで、八甲田山雪中行軍の意義を単に軍事的な意味合いだけではなく、人の神域への挑戦だったという含みをもっと明確にすればよかったのに。クライマックスで山岳怪談にするなら、そうすべきなのに。天は我々を見放した!のセリフもそれで救われるのに。(でもスポンサーが創価学会だから「神」はだめなんだろうね?知らんけど)