⚠要注意ネタバレあり⚠『ゴジラ-1.0』で山崎貴が隠したもの。「母親からの自立」と「戦後民主主義のリセット」という裏テーマについて

ツッコミどころ満載ですがなにか?

■『ゴジラ-1.0』は、誰が観てもいかにも「ツッコミどころ満載」(嫌いな言葉ですが敢えて使います)の冗長なドラマ部分が引っかかるのだけど、以下の対談でも庵野秀明が率直にそう言ってます。これは庵野秀明ならずとも、素人目にもそう感じるところです。脚本はプロに推敲してもらったほうが引き締まるし、編集ももっとリズムを生まないといけないはず。


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お前なら、天皇と母親、どっちをとる?

■でも改めて考え直してみると、本作はなかなか意欲的なドラマ構築が考えられていて、特に主人公のドラマには実は観るべきところが多い。でも、山崎貴はそれを敢えて隠そうとする。万人受けする口当たりを優先するからだ。

■特攻隊員なのに卑怯なまねをしてまで生きて帰ることに執着するのはなぜかという心理ドラマになっていて、そこには母親の存在と天皇の存在が隠されている。生きて帰ることに拘るのは、彼が左翼的なインテリで、こんな戦争(天皇の命令)で殺されてたまるかというタイプではなく、母親がそう言って送り出したからなのだ。つまり、木下恵介の『陸軍』が下敷きになっている。

■ところが、貴様それでも帝国軍人か?天皇の赤子として恥ずかしくないのか?(意訳)と辱められながらも恥を忍んで生還したところ、母はすでに東京大空空襲で亡くなっている。隣のおばさんが、復員兵に対する戦後日本人の代表として登場して、エキセントリックになぜ生きて還ってきた!と責め立てる(脚本の芝居の構築が下手なのでうまく機能しないけど!)始末で、戦後の日本に身の置場はない。つまり、ゼロではなく、マイナスを背負って、戦後日本に置かれた寄る辺ない人間として描かれる。だから、-1.0とは、主人公の置かれた「無」よりも悪い状況、心の負債のことであり、同時に、戦後の日本人全体の心情を象徴させている。

■だから、本当は、このドラマをわかりやすくするには、母親のイメージは必須のはずだし、天皇に対する言及がひとつあればよかった。人間宣言に対する反応などをさらっと入れておけばいいのだ。それに母親がどうやって彼を送り出したのか、その回想イメージは必須だったと思う。天皇の命令よりも母親の願いを優先した男なのだから。

■そして、特攻を拒否して死に損なった男のイメージには、太平洋戦争で敗北したけど、その責任を曖昧なままにして、戦後体制に移行した日本国の、生きているのか死んでいるのかよくわからない状態をダブらせている。こんなことなら完膚なきまでに破壊されて綺麗さっぱり死ねばよかった。という、青年らしい極端な潔癖性。(世代が違う中島貞夫なら「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」(「893愚連隊」)と一蹴するところだろうけど)

■でも、この煉獄のような中途半端な状態から抜け出す方法がある。それはもう一度戦争して、今度こそ勝つことだ。それが、本作のドラマの核心にある情動で、山崎貴が隠したものの正体だ。何のために卑怯者と呼ばれながら還ってきたのか?還ってきても卑怯者と罵られるだけなのに。

■そう考えると、-1.0の別の意味が浮かび上がってくる。戦争に負けた日本は本当に「無」に還っただろうか?いや、「国体」が残されたではないか。それこそは「無」になれなかった日本に残された、+1.0ではないか。だから、ゴジラは巨大な-1.0として東京に上陸し、米国が東京に落とせなかった原爆を米国に代わってお見舞いするのだ。これによって皇居は蒸発し、日本は真の意味で「無」に還ることになる。そこから、日本の真の戦後民主主義は始まるのだし、そうあるべきだというのが山崎貴の見立てなのだ。その意味で本作は『永遠の0』と同時に金子修介の『GMK』に多くを負っているし、笠原和夫の映画とも響き合っている気がする。
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日本が再び世界に「屹立」するために

■戦後日本の不全感を象徴するのが、実は主人公の性的な部分で、闇市で拾った若い女とずっと暮らしながら、実は肉体関係を持たない。映画を観ていて、みんな不自然に感じるところだが、つまり主人公の性的不能を暗喩している。ひょっとすると他にも映画的な仄めかしがあったかもしれない。だからいつまでも正式に結婚できず、疑似家族のままなのだ。そして、主人公の性的不能という煉獄は、戦後日本の不全感、不能感の象徴にもなっている。そして主人公が真に自立し、性的不能を克服し、「男」になるためには、母親からの自立が必要となるはずだ。

■そうしたトラウマに由来する煉獄からの脱出、主人公が自分自身を打ち立てて、自律的に生きる力を獲得するためには、できれば歴史を巻き戻してあの戦争で真の勝利を得ることしかないというモチーフにお話は集約してゆく。そのためのアメリカ(や連合国)の代わりに登場するのが本作のゴジラで、戦争の象徴ではなく、明確に敗戦というトラウマの象徴として登場する。主人公は銀座に降る「黒い雨」の中で、まるで自身がゴジラであるかのように絶叫する。被爆した日本は、自身がゴジラと同格になることによって、ゴジラを乗りこえ、つまりあの戦争を再度戦って勝利することで、真の自立、つまり「男」になること、を目指すのだ。(実際のところ、主人公は後々放射線障害で苦しむことになるだろうが)

■という、実はかなりの過激思想に基づいたお話なのが、『ゴジラ-1.0』という映画なんだけど、山崎貴はきれいにそういった骨組みをキレイに隠してしまうから、興行的に大ヒットするわけ。本当に言いたいことをすべて裏に隠して、表面上は口当たりの柔らかい体感型アトラクション映画に仕立てて見せる、実はとても巧妙な作り手なのだ。(大人だなあ)

■以上、いかにも古臭い精神分析学的なステロタイプな解釈だし、LGBTQの時代に何言ってるの?感もあるし、あまり新味もないけど、まだ誰も言及していないと思うので、書き残しておきますよ。でも、意外といい線いってる気がするけどなあ。なにしろ山崎貴って、若そうに見えるけど、来年還暦ですから、発想が「おじいさん」なんですよ!

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