『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の特撮はなぜ満身創痍だったのか

金子修介の『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』って当然何回も観てますが、個人的にはあまり感心しない映画でした。最近平成ガメラを見返してみると、やっぱり全然レベルが違うのですね。それはまず脚本の違いが一番大きいです。平成ガメラは少なくとも第2作までは、やはり突出したクオリティだと思います。もちろん、特撮のクオリティは総じて高くて、ミニチュアワークも丁寧だし、合成カットの仕上がりも秀逸なので、それでついつい何度も観てしまうんですけどね。

■個人的に感じる映画としての疵としては、第一点は伝奇モノにしたこと。平成ガメラも最終的に第3作で伝奇ものになってしまったけど、個人的には好きじゃない。なんでもありになってしまうし、ファンタジーに接近してしまうから。少なくともゴジラ疑似科学的な世界観で収めてほしいという気持ちがある。二点目は配役の違和感で、宇崎竜童と新山千春は座りが悪い。宇崎竜童も使い方によって非常に良い味を出す人だし、新山千春も素材として見るといろいろ可能性を感じさせるけど、この映画にはきつかった。

■一方で、映画の制作環境としては、特撮班のなかでいろいろと齟齬があったらしいとも聞いていたけど、ここにきてその具体的な内容が徐々に明らかになってきたので、まとめておきたいと思います。

■特撮班における問題の根本は、神谷誠の正式参加が遅かったことが原因らしい。もともと金子修介東宝と脚本を用意し、監督の意向としては1班体制で行きたい、特撮も自分で撮りたいと考えていた。おそらく2000年6月公開の『クロスファイア』の成功体験が根拠になったのでしょう。それゆえ、本編美術も『クロスファイア』同様に三池敏夫でという案もあった。企画開発の進んだ2000年9月時点では、神谷誠はまだ参加しておらず、それでも特殊技術は富山Pが神谷誠に依頼したという記録が東宝に残っているそう。このあたりの認識の齟齬もいかにも訳ありな気がしますね。
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■企画の初期段階で特撮に関して金子監督の相談役になったのは品田冬樹で、白目の巨大なゴジラというコンセプトは2000年8月頃には決定され、その後、金子修介が特撮パートも含めた絵コンテを制作した。全編自分で撮る気満々ということですね。その意思表示の意味もあったかもしれません。ところが、東宝では制作管理上それはできません、少なくともゴジラクラスの大作では無理ですという判断がなされる。

■その後、2000年11月に神谷誠に正式にオファーがあり、特撮班への参加が決定したが、すでに特撮の現場作業に支障を生じる巨大ゴジラは決定事項だった。しかも富山Pからは、あなたは特技監督じゃありませんよ、あくまで監督は金子修介ひとりですと念を押される。それは川北紘一のリタイア後の東宝映画の共通認識だったわけです。今後は特技監督は置かないということです。しかも神谷誠は、庵野秀明が総監督したドキュメンタリー『ガメラ1999』に収録された特撮現場での発言などが金子修介の不興を買っていると思っていたので、呼ばれるとは思っていなかったと述懐している。
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■その後、2001年1月に登場怪獣がアンギラス、バランからモスラキングギドラに変更され、かなり初期から東宝の立てたスケジュールでは撮りきれないから、B班を置いてくれと神谷誠東宝映画に要望したけど、聞いてくれなかったそう。平成ガメラの場合はスケジュールを大幅超過して撮りあげたわけですが、東宝はお金の管理はきっちりしてますから、そんなことは許されないわけです。(というか、平成ガメラ大映がなんで無茶を許してくれたかが逆に不思議でなりません。)

■さらに、神谷誠が参加して特撮の演出意図や実務的な観点から絵コンテの見直しを行っていて、この際に樋口真嗣も協力していることが最近公になりました。で、絵コンテの最終的な変更は金子修介の了承を得て行っているのに、東宝映画側は絵コンテの変更を勝手にしておいて撮りきれないとはどういう了見かと叱責したそう。プロジェクトの企画開発の初期から関与していればこんな無駄な諍いはなかったのにと述懐してます。

■しかし、大涌谷の対決場面で神谷誠が粘りすぎてスケジュールにさらにしわ寄せが生じることに。そもそも金子修介のコンテでは平原で戦うはずが、高低差を生かした戦闘にコンテを変更したことも影響しているでしょう。結局、手塚昌明が指揮するB班が組織されたのは撮影終盤で、それでも撮りきれず、横浜のシーンは欠番カットが出た。完成した映像についてクオリティも厳しくなっているのは、映画の観客がみな感じるところですね。

■記録によれば、特撮班の撮影期間は2001年5月17日から8月9日までの3ヶ月弱の予定で、B班が稼働したのが8月1日からということです。そして、8月21日から24日まで実質4日間の追加撮影が実施されることになります。

■これも神谷誠の作戦によるところで、大事なカットを敢えて後回しにして延長せざるをえないように誘導したそう。といっても、実質わずか4日間の延長です。大映の『ガメラ 大怪獣空中決戦』では撮りきれないと判断された終盤に急遽B班が組織され、それでも1ヶ月程度の延長が発生しています。平成ガメラは小さくて古い東宝ビルトを使用したのに対して、東宝映画は東宝撮影所の立派なステージを使用するのでレンタル料がえげつないため東宝が怒るのは無理もない気がします。。。おかげで、神谷誠東宝に干され、スケジュールを管理するチーフ助監督の菊地雄一ももう声がかからないだろうと観念したそうです。

■つまり、この作品で撮影期間の延長の責任が問われなければ、次作『ゴジラメカゴジラ』の特撮も神谷誠で続投の可能性があったわけですね。完全に妄想の世界ですが。そして2006年に東宝系で公開された樋口真嗣の『日本沈没』では、東宝映画ではなくセディックの制作だったため、特撮監督として神谷誠が参加しています。東宝映画の制作ではないから、樋口真嗣が呼ぶことができた訳ですね。神谷誠はこのあと、セディックやシネバザールの制作する映画で特撮監督やVFXスーパーバイザーを担当するようになります。そもそも、東宝映画自体が直接映画の制作を行うことが少ないので、あまり影響はないわけですね。

■それにしても、完成したこの映画十分長いので、横浜の決戦シーンが元々のアイディアどおりに描写されると尺の問題が出てくる気がするので、金子修介の映画としては色々と全体的にバランスがおかしな感じになりますね。まあ、どこの組織でもありがちな、ボタンのかけちがえ問題だと思いますが、残念なことです。

■2000年9月に特撮班への参加を要請したとする東宝側記録と、11月に電話で受諾したとする神谷誠の記憶の間の2ヶ月のズレの意味するものはなんなのでしょうか。この2ヶ月間の空白期間が後々まで尾を引いた原因ではないかという気がするのですが、真相は今も藪の中です。(2000年9月に要請したけど、特撮班の正式稼働は年明けからなので、それまでに金子監督がコンテや演出方針を全部準備しておくから、そのとおりに撮ってくれさえすればいいから、身体空けて待機しておいてねという趣旨だったのかな?そして、プロジェクト初期に参加させてもらえなかったために、現場的調整が難しくなったとか?)



参考

お馴染みのコンプリーション・シリーズです。今だから言える(?)貴重な証言が満載です。

これ何故か肝心の神谷誠のインタビューがないんですよね。それだけで何かあると勘ぐりますよね。いや当時勘ぐりましたよ。インタビューは行ったけど、赤裸々な内容だったので今は載せられないと判断して割愛したとか?maricozy.hatenablog.jp
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