だれもが極右クーデター決起軍に肩入れしたくなるヤバい危険作!『皇帝のいない八月』

基本情報

皇帝のいない八月 ★★★☆
1978 スコープサイズ 140分 @BS松竹東急
製作:杉崎重美、宮古とく子、中川完治 原作:小林久三 脚本:山田信夫、 渋谷正行、山本薩夫 撮影:坂本典隆 照明:八亀実 美術:芳野尹孝 音楽:佐藤勝 監督:山本薩夫

あらすじ

自衛隊のクーデター計画が発覚し、各地の賛同部隊は内閣調査室長(高橋悦史)の主導のもと鎮圧されるけど、特急さくらを乗取った部隊だけ鎮圧に失敗する。そこには首謀者藤崎(渡瀬恒彦)とその妻(吉永小百合)、さらにその昔の恋人(山本圭)が乗っていた。その事実を知る自衛隊の警務部長(三國連太郎)は私情に絡んで錯乱する。。。

感想

■久しぶりに観なおしましたが、リマスターの画質が良くて堪能しました。お話の流れを改めて確認することができたものの、細部についてはまだ腑に落ちないところが残ります。こうした政治的サスペンスではありがちなことではあるけど。

■改めて観ると、全くだめなところと奇跡的にうまくできてしまった部分の落差が大きくて、とても傑作とは呼べないけど、微妙なバランスのうえに成り立った異形の映画と感じる。そしてそれは配役の妙に負うところが大きい。

■いくらなんでもありえないフィクション部分は明らかな疵で、そのあたりを担う滝沢修とか閣僚の面々はさすがに辛い。特に閣僚会議の場面など、役者は揃っているのに、美術セットがまるでダメ。こうしたジャンルに松竹の技術スタッフは慣れてないからだ。丹波哲郎なんて顔見世レベルで、勿体ないかぎり。

■クーデター計画の背後には長老政治家の佐分利信がいて、自衛隊のカリスマ教官鈴木瑞穂がいて、さらに在日米軍諜報部が関与しているけど、この米国の関与のロジックがよくわからない。佐分利信をワインで毒殺するのは誰なのか?

佐分利信の秘書で浜村純が出ていたり、同じく地味に重要な役回りを波多野憲(!)が演じたり、なかなか味わい深いのだが、一番の見所は渡瀬恒彦吉永小百合山本圭の三角関係。本来は渡哲也と吉永小百合の共演企画だったらしいから、なぜか日活映画の観客を意識している。それはそれで良いと思うけど、結果的には渡瀬恒彦の若さがちょっとした奇跡をもたらした。映画の終盤でやっと展開されるクーデター部隊の理念が渡瀬恒彦の神がかった名演で展開されるから、結果的に山本薩夫監督も困ることになった。渡瀬恒彦の狂った演説があまりに真に迫って観るものをすべて釘付けにしてしまったからだ。

■本来、監督の政治的立場からすれば一蹴されるべきロジックのはずなのに、この映画で一番感動的な台詞になってしまった。そのためこの映画を観るものは、誰しも渡瀬恒彦の危険な名演に撃たれることになる。市井の一庶民代表として山本圭は対抗するし、その言っていることは正論で間違っていないのだが、渡瀬の憑かれた演技の前には文字どおりひ弱に見える。山本圭が嫁さんに土産に買った博多人形を渡瀬が冷酷に踏み潰す場面は、今回改めて観て上手い作劇だなあと感じたところで、一庶民の望む幸せと、決起軍の理想を対比する小さなエピソードだけど、劇的効果は抜群で、山本圭が怒るのも無理はないと自然と感じさせる。(ちょっと泣かされました)

■さらにいえば、吉永小百合の演技が二人の演技のテンションについて行けないので、シーンのバランスが乱れて、余計に渡瀬だけが際立って見えることになった。こんなことはあってはならないことのはずだけど、山本薩夫はこれでOKを出してしまったのだ。でもその判断は山本薩夫の映画監督としての本能的な志向が間違っていないことを示していると思う。このひとは時々間違って面白すぎる映画を撮ってしまうのだが、あれは理知的な差配や計画的なデザインではなく、本能とか無意識のレベルで成立している奇跡的な塩梅だと感じる。

■一方で、もともと山本圭の許嫁だったのに、5年前に渡瀬に拉致されて無理やり妻にされた吉永小百合の人間像があまりに無理無体で、理解し難い。だから三角関係がすんなり腑に落ちない弱点になっているのだけど。吉永小百合は単純に綺麗だし演技的にも悪くないんだけど、東映でハイテンション芝居に馴染んだ渡瀬と組み合うと、演技の波動が噛み合わない。そのあたりは監督が調整すべきなんだけど、山本薩夫はあまり演技的に指導する人ではないので、ほぼそのまま。もともと渡哲也と吉永小百合のコンビなら日活映画の呼吸が基本にあるから、しかるべきラインでバランスが取れたはずなんだけど、石原プロが渋って、弟に白羽の矢が立ち、渡瀬もさすがに東映でのやりたい放題のハネた演技はしないものの、そのテンションを維持したまま演技を抑制したもんで、スクリーンには演技者の内面の狂気まで映し出されてしまった。それは山本薩夫の意図してところではないけど、映画的な事件だと思う。

■あとはやはり配役の妙で、特急さくらの決起軍のなかに橋本功がいて、山本圭をどつき倒すとか、明らかに『若者たち』を踏襲した趣向で、当時の観客は当然観てるよねというところだろう。ああいつもの兄弟同士のどつきあいやってるよと、当時の観客ならニヤニヤしながら観たはず。しかも終盤で橋本功が、人質を容赦なく射殺した上官に、おれは自衛隊でそんなこと教わった覚えはないぞと反抗する燃える展開に。山本圭を巻き込んでのこのあたりの展開は、大きな見どころで、山本薩夫の演出も全然悪くない。

■でもバランス的におかしいのは、本来クーデター計画を鎮圧して暴力的に隠蔽しようとする内閣や内閣調査室の暴挙つまり「行政の暴走」を批判するところに映画の主眼があったはずなのに、行政側の人間像やその力学が曖昧だったり、描写が不十分なため、決起軍だけに観客の感情移入のベクトルが向かうことになったことだ。そのため、渡瀬恒彦が映画の主役に浮上し、観客のカタルシスを担うことになってしまった。それは山本薩夫の本来意図したことではないはずなのにだ。

■しかも全盛期の佐藤勝がオーケストラ構成でテーマ楽曲を作ってしまったので、妙に壮大になってしまった。もちろん、それはいいこと(傑作!)なのだが、クライマックスの決起隊殲滅と同時に事件の証人たる一般乗客の虐殺場面の妙な高揚感を描出することで、どう考えても決起軍に肩寄せしてるよねという見方になる。山本薩夫は基本的に共産党との関係のなかで映画を撮っていたはずなのにだ。でもそこにこそ、山本薩夫の一筋縄では理解できない映画人としての懐の深さを感じるのですよ。それは党派性を超えた純粋に映画人としての本能の命じるところだろうと推測するのです。山本薩夫の凄みは、実はまだこれから発見されるのではないかと期待している。

■ちなみに、出動する戦車や戦闘機が薄っすらと写っていたり、自衛隊のヘリや特急さくらの爆発など、ミニチュア特撮は少なくないのだが、クレジットがなく、誰が特撮シーンを撮ったのか映画史的には不明なまま。東宝でも東映でも特撮研究所でもなく、円谷プロは特撮シーンだけの請負はやっていないので、日本現代企画が解散後に人材が流れた創英社(1979年『戦国自衛隊』も担当)ではないかと睨んでいるのだが、真相は未だ不明だ。単純に鈴木清に聞けばわかるような気がするけど。どうなの?誰も聞いてないの?


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