吉永小百合版『あゝ野麦峠』製作中止事件とは何だったのか(1/3)

【最終更新:2023/6/29】

はじめに:映画企画はいかにして挫折するのか

■みなさんは『あゝ野麦峠』という映画をご存知のことでしょうか。山本薩夫が監督して、大竹しのぶが主演した大ヒット映画で、以下の通り記事も書きました。原作は山本茂実が1968年に出版したノンフィクション文学です。
maricozy.hatenablog.jp

■でも、実はこの映画化はもっと早くに、吉永小百合主演で企画されていたことを知っている人は少ないかもしれません。ただし、そのときは山本薩夫ではなく、内田吐夢が監督予定だったのです。タイミング的には原作本が出版されるとすぐに映画化企画が動き出していたようです。この記事では、この幻の吉永小百合版『あゝ野麦峠』が、幻に終わってしまった事件の経緯を探求したいと思います。3回位に分けてお送りする予定です。

■なお念のため断っておきますが、本稿の目的は吉永小百合ならびにその親族を貶める意図は全くありません。幻の映画がなぜ幻になってしまったのか、そこに純粋に映画史的な興味があり、映画製作というプロジェクトが失敗に終わった経緯や原因に何があったのかを探り、後世に教訓を引き継ぐことが年長者の役割だとの認識で取り組むものです。単なる興味本位ではありませんので、念のため。

小百合版『あゝ野麦峠』製作中止事件とは何か

■昭和44年3月、吉永小百合の個人事務所である吉永事務所が、吉永小百合芸能生活10周年記念映画『あゝ野麦峠』の自主製作を発表します。

■そこで、製作:宇野重吉、脚本:八木保太郎、監督:内田吐夢という重鎮を揃えた大作とアナウンスされました。撮影には内田吐夢とは義兄弟の碧川道夫(映画撮影技術の泰斗)が予定され、その後碧川の推挙で宮島義勇(こちらも斯界の超大物)が担当することになります。その後、同年の夏ころに実景撮影からクランインしますが、わずか3日後(4日後とも)に撮影を中断。製作の延期を発表します。事実上の製作中止の判断でした。

時系列で読む事件の経緯

■この吉永小百合版『あゝ野麦峠』製作中止事件に関して様々な事実関係を調査するうえで、まずここでは事件の経緯を時系列で追ってみましょう。

■なお、この中に登場する人物について、上記で触れた意外の関係者について簡単に紹介しておきましょう(敬称略です)まず大塚和は、民藝映画社の社長で日活と契約して日本映画の名作を数多く製作した大物プロデューサーです。吉永小百合の代表作も手掛けている恩人です。若杉光夫は民藝映画社所属の演出家で、脚本も演出も手掛けるベテランです。吉永は吉永小百合本人、吉永(父)は吉永事務所社長の吉永芳之、吉永(母)は吉永和枝です。それでは、以下の通り、事件の経緯を簡潔に紹介しましょう。

  • 昭和44年1月初頭 赤旗日曜版に吉永が『あゝ野麦峠』を映画化したい意向との記事が出る。
  • 同年1月17日 赤旗日曜版の記事を見た繊維労連(日本繊維産業労働組合連合会)と吉永事務所が会合。吉永事務所はすべて民藝の宇野にお願いしていると言う。
  • 同年1月下旬 繊維労連、全農映(全国農村映画協会)が、吉永事務所で会合。
  • 同年3月13日 吉永は永田町ヒルトンホテルで記者会見し、芸能生活十年を記念して、映画『野麦峠』を自主製作すると宣言。
  • 同日 吉永事務所が『あゝ野麦峠』をやるので民藝が全員で協力したいと宇野が発言。これ以降、大塚が製作に関与することに。
  • 同年年4月 民藝で繊維労連と会合。
  • 時期不詳 八木宅で、長大な第一稿を三十分くらい吉永がざっと目を通して「ありがとうございました」と帰るのを大塚が目撃する。
  • 同年8月30日 第一稿をもとにシナリオ検討会が2時間ほど開かれる。内田、八木、吉永(父)、吉永、宇野、若杉、大塚ほかが参加。吉永事務者側は意見を言わない(のちに宇野に箝口令を敷かれていたと吉永(父)が漏らす)一応、改定作業に入ることになる。
  • 同年8月31日(?) 改定作業に入る際に、吉永(父)が大塚に「意見書」を託そうとするが受け取らず。
  • 同年9月1日 吉永(父)が八木に「意見書」(第一稿を読んだ事務所、ファンクラブ関係者の感想の走り書き)を渡すと、八木が立腹、降りることを決める。宇野から八木に民藝の大橋喜一に書かせるから了承してほしい旨電話。
  • 同年9月17日 吉永事務所の同意のもと、内田の意見を入れて書かれた大橋の第一稿があがる。
  • 同年9月末 大橋の改定稿、決定稿があがる。並行して吉永事務所で配役の検討が進んでいたが、大塚はノータッチ。この頃、内田、碧川、宮島義勇らのメイン・スタッフは先行して蚕糸試験所で蚕の実写撮影を行い、中止決定までに3日間(一説には4日間とも)撮影する。
  • 同年10月2日 吉永と吉永(母)が宇野宅へ走り込んで「どうしてもイメージが違うので中止したい」と言い出す。宇野が具体的な理由を追求するが、吉永は「お許しください」の一点張り。
  • 同年10月3日 オープンセットの建込みに野麦峠へスタッフが出発する予定日に、中止が決定。
  • 同年10月17日 大塚は松竹映配が配給に決まったと聞いていたが、松竹映配の副社長との立ち話で、シナリオも配役も何も聞いていないし、配給の予定もないと聞かされる。
  • 同年10月23日 吉永作成のプロット案が内田のもとへ届くが、内田は「これはどうにもならない」と腹をくくる。
  • 同年10月末 メイン・スタッフ解散。

■以上が事件の経緯ですが、補足しますと、撮影が碧川道夫に決まったのはかなり早い時期と思われます。

■『あゝ野麦峠』の中止決定後、吉永が初の他社出演として、伊藤大輔の『幕末』に出演することが10月25日に公表されました。このことも、『あゝ野麦峠』を優先して他の仕事を断ってきたのに、自分は掛け持ちするつもりだったのかと、スタッフの不興を買うことになりました。(つづく)

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