感想
■これまでツイッターで何度も呟いているのだが、田村孟のシナリオは間違いなく傑作だ。そのことはこれまでに数々の名作シナリオ集成に収録されているから、業界でも定説である。しかし、そのシナリオを先に読んでしまったのがいけなかった。大島渚による完成品の映画には、シナリオを読んだときほどの感動はなかったからだ。
■そもそもシナリオの概要は、創造社グループのディスカッションで練られたらしいが、このシナリオは実際に起った当たり屋事件を忠実に追ったもので、シナリオの表現上は他の要素(演出の工夫等)は考慮されていない。極めてシンプルな内容かつ書きぶりである。特に大島渚に当てて書いた雰囲気もなく、実に開かれたシナリオである。しかしそこに、大島渚の演出によって、何故か天皇制の問題が上書きされる。
■完成した映画を観ると、当時から今に至るまで日本の基幹製品である自動車に体当りする犯罪は、まるで戦時中の特攻作戦のように見えるし、その対象は単に自動車ではなく昭和元禄に湧く経済成長を享受する当時の日本そのものだ。つまり渡辺文雄演じるダメおやじが背負っている戦争の亡霊は、少年や継母を新たな戦争に駆り立てるのだ。そして、戦場に駆り出された兵士が最初に殺した敵兵の姿に否応なしに罪の意識を喚起されるのと同じように、北海道で起こった無垢な少女の死が、少年に耐え難い罪の意識を植え付ける。
■その意味でこの映画は昭和44年における「現代の戦争」映画であり、大島渚はそうした社会性において少年のドラマを再構築している。でもシナリオを素直に読めば、そこにはそもそも日の丸の指定なんてなくて、政治的な映画ではなく、あくまで叙情的な青春映画、家族映画なのだ。大島渚は創造社を構えたときから(?)、ありきたりの青春映画を素直に撮ることは許されない体になってしまったのだ。
■だから、このシナリオに素直に感応したのは当時子供向けテレビ映画を量産していた佐々木守で、インタビューでも「これが本当にいい脚本で大傑作」と述べているし、創造社グループの若手としては先輩の単独脚本に嫉妬したに違いないのだ。
■親に命じられて犯罪に手を染める少年は、アンドロメダ星雲から来た宇宙人になりたいと願う。自動車はぶつかれば車のほうが壊れるし、涙は流さない。宇宙人には、もともと泪なんてないからだ。そんな正義の宇宙人になりたいと願いながら、親に命じられ、親のために、罪を重ねる少年。前の戦争の亡霊に新しい戦争を強制される10歳の少年兵だ。北海道の少女の事故死は、宇宙人にもなれず、自分で死ぬこともできない、人間のこどもである自分を否応なく突きつける。アンドロメダ星雲の宇宙人に関する少年の会話には、明らかにウルトラマンの姿が仮託されていて、佐々木守も参加した円谷プロの子ども向けテレビ映画が意識されている。
■そして特撮好きなら気づくはずだ。宇宙人に見立てた雪だるまを体当りして崩そうとする少年のスローモーションが、あるイメージを換気することに。それは特撮番組で、高速度撮影によって捉えられた、怪獣が石膏ビルを叩き潰す場面にそっくりな映像であることだ。正義の宇宙人になりたいと願った少年は、自分がむしろ退治されるべき怪獣であることを、決定的に自覚させられるのだ。もちろん、田村孟も大島渚もそこまでの意図はなかったはずだが、奇跡的に特撮テレビ映画との共鳴を果たしてしまったのだ。シナリオの#87の終盤は以下のように書かれている。まさに、円谷プロ特撮の典型的な特撮場面を描写したように、見えないだろうか。
#87 白一面の広場
(前略)
(次第にスローモーションになる)
そして、何やら叫びながら雪をかきまわし、つかんでは投げ、地面の上で暴れ狂う。
雪けむりがもうもうと舞い、少年の動作は、あやしい踊りのように美しく、又、鬼気をはらんで、そして悲しい。
■大島渚は1年かけて実際に事件の起きた土地でロケを行っているので、あまり文句は言いたくないが、もう少し素直に叙情的に撮ってほしかったな。林光の音楽も多分子供の玩具の木製のピアノを使ったりして実験的だけど、いつものような流麗な叙情性は敢えて避けている。大島渚の演出も同様で、例えば同じシナリオを野村芳太郎が撮れば、もっと痛ましい叙情的な作品に仕上がっただろう。大島渚は基本的にフィックスで長回しの人なのだが、ちゃんとカット割ってほしいよね。
■少年を演じる阿部哲夫は実際に孤児で、この映画の後、養子に欲しいとか映画に出てほしいとの声も出たらしいが、自ら元の施設に戻ったという。その後どんな人生を送っているかは不明。実際の事件で当たり屋をさせられた少年は現在、65歳を超えているはずだが、事件後、父も継母も、さらには弟も、早くに亡くしたと聞く。
補遺
■と書いていたら、以下の通り、阿部哲夫少年の現在の消息が明らかになっていた!良かったね、ホントに良かった!
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