特撮研究②:吉永小百合と仮面ライダー誕生の意外な関係とは!?

はじめに

■みなさんは、吉永小百合と初代仮面ライダー誕生の意外な関係をご存知でしょうか。たぶん、特撮マニア畑でも東映特撮が守備範囲の方は、ああ、あの件でしょ、というくらいに知られている事実ではないかと思いますが、東宝円谷プロ系をメインフィールドとする筆者にとっては、結構意外な事実だったので、敢えてこうして記事にしてみました。
■「特撮研究」ではありますが、特撮技術や技術スタッフに関する研究ではなくて、特撮作品の成立における周辺事情に関する知られざる逸話、日本映画秘史といったところでしょうか。お気軽にお読みください。

日本(映画界)沈没?

■すでに1960年代初頭から観客は減り続け、邦画界は斜陽期に入っていたのですが、1960年代末から1970年代初めの日本映画界はまさに風前の灯火の状態でした。特に1968年から70年くらいにかけては地滑り的に邦画界をめぐる末期的な事件、奇怪な事件が頻発します。1968年12月には黒澤明が『トラ・トラ・トラ』の監督を突如解任され、1970年に円谷英二が死去すると東宝はわずか3ヶ月後には特殊技術課を廃止、特撮部門を分社化してしまいます。事実上の東宝特撮のいったんの終焉でした。
■日本映画界の稼ぎ頭はヤクザ映画とピンク映画となり、特に経営が逼迫していた日活と大映は1970年にダイニチ映配となり、共同して配給にあたる体制で生き残りを図ります。邦画界の凋落に一石を投じたのが三船敏郎石原裕次郎中村錦之助らのスタープロの登場でした。俳優自らが自分の裁量で良い映画を製作したいという動きでした。
■この時代は、日活の看板スターであった吉永小百合もにとっても、公私ともに大きな変動の時期となりました。既に1960年代後半に入るころから、五社協定の縛りを超えて憧れの松竹映画への出演を水面下で交渉していた吉永小百合事務所ですが、壁は厚く、すでに契約関係で一定の距離を置いていた日活映画が不振のため出演作も減ります。そして、1969年に早稲田大学第二文学部を卒業しますが、同年の日活との契約更新は年間2本の出演、同社の了解のもと他社の出演も可との内容になっていました。

幻の小百合版『野麦峠』とは何か?

■そんななか、1969年3⽉、誕⽣会の席上、吉永事務所は彼⼥⾃⾝の企画による第1回⾃主製作作品として、山本茂実のノンフィクション『あゝ野麦峠 ある製⽷⼯⼥哀史』の映画化を発表します。本を読んだ吉永小百合自身が映画化を願ったものでした。吉永事務所が1億円を出資して、製作:宇野重吉、脚本:八木保太郎、撮影:宮島義勇、監督:内田吐夢という重厚なスタッフで撮影を開始するというものでした。
■この映画の企画にあたっては日活と連携していた関係で懇意だった劇団民藝宇野重吉に本人が相談して、宇野重吉が差配したそうです。吉永小百合は『飢餓海峡』に感銘を受けたと後々も語っており、内田吐夢の起用は念願がかなったものでしょう。脚本の八木保太郎は大ベテランであり、何より吉永小百合の要望で製作された代表作『愛と死をみつめて』の脚本を担当して大ヒットを記録しているから、吉永事務所的に万全の座組だったことでしょう。*1撮影は『飢餓海峡』でも技術指導にあたった碧川道夫に内田吐夢から相談があり、当初は自身でキャメラを回すつもりだったようですが、最終的には、第一人者として宮島を推挙したようです。
■そして、実際に映画は1969年の夏場にクランクインしており、蚕の実景の撮影を開始したところで、なんらかのトラブルが発生して撮影が中止され、スタッフへの補償を行って、そのままこの企画は幻と消え去ります。この原因について宇野重吉は以下のように推察しています。

実は、⼩百合君に製⽷⼯⼥が⾚旗をふり⽴ててストライキをやるような映画を作らせまいとする圧⼒が、不思議な筋をたどってかかって来たものとしか考えられないのである。
宇野重吉「『あゝ野⻨峠』について」(「⺠藝の仲間121号・あゝ野⻨峠」)

また、碧川道夫は以下のように述べています。

ところが、製作を始めたとたん、あるところからブレーキがかかりました。紡績界の内部に、深く突っ込まれ、昔のことを洗いざらいされると困る⼈々がいたのです。
わずか四百フィートほど、それも蚕さんの実景を回し始めたところで、ストップ。それで、吉永サイドが、スタッフに、賠償⾦を⽀払いました。ここで吐夢の『ああ野⻨峠』はお蔵⼊り、頓挫してしまったのである。

また、以下のような記述もあります。

 彼女の前に立ちはだかったのは会社だけではない。吉永事務所を作ってマネージメントを取り仕切った父が社会派嫌いだった。『あヽ野麦峠』というかつての女工哀史を描いた本を映画化しようとした際、ストライキの場面が多く描かれた脚本に、プロデューサー役の父が同意しなかった。巨匠を監督に据えるところまで話が進んでいたのに、ついに映画化は実現しなかった。
伊良子序「昭和の女優」

制作中止の公式見解としては、吉永小百合自身が脚本に納得がいかなかったと説明されたようですが、実情は藪の中です。脚本に納得がいかなかったのは、吉永小百合本人なのか、その父親なのか。それは名分であって、何らかの圧力が働いたのか。こうして吉永事務所の初の自社製作は完全に頓挫してしまいます。
■また、後に山本薩夫が1979年に映画化を実現したわけですが、時代物なので、どう考えても相当な製作規模が想定され、舞台装置、衣装代含め美術予算なども相当膨大なものになるはずです。しかも、本来なら古巣である日活撮影所の生産ラインを使ったほうが確実と思われるのですが、どうもそういう制作体制ではなく、作品ごとに撮影プラットフォームを立ち上げる、昔ながらの独立プロ的な制作スタイルだったようなので、本当に成算があったのか不思議な気がしてくるところです。製作には日活で活躍した劇団民藝の大塚和も絡んでいたのですが、仕切りの悪さはこの時代を象徴しているような事件です。
■この自社製作が頓挫したトラブルについては当然吉永小百合自身も気に病むところがあり、以下のように述懐しています。

幾度も「もう仕事は続けられない」という局面がありました。(略)事務所で自主製作しようとしていた映画を中止し、多くの映画人に迷惑をかけたとき。(略)
吉永小百合「わたしが愛した映画たち」

1970年ころから吉永小百合は発声が不自由になる体調異変に見舞われますが、こうしたトラブルも遠因となっていたかもしれません。それにしても、近年では東映を母体として、「北の三部作」などで自身の企画によるプチ社会派映画を連作するなど、すっかり過去のトラウマを克服されたようです。

仮面ライダーはどこで産まれたのか?

■さて、ここで仮面ライダーの登場です。前フリが長かったですね。皆さん、起きてますか?
■初代仮面ライダーの製作が決定されたのが1969年とされていますが、実際の撮影開始にはハードルがありました。東映大泉撮影所が労働争議たけなわで使用できそうになかったため、急遽、代替の貸しスタジオが必要になったのです。その結果、神奈川県川崎市に細山スタジオを発見し、これを1970年から借り上げ、東映生田スタジオと名乗ったのです。このスタジオは1969年6月に完成して築浅だったものの、プレハブのバラック建てで、照明や撮影用の設備が不十分で、雨が降ると録音もできない施設でした。番組自体が低予算だったこともあり、1971年2月に開始された仮面ライダーの撮影は屋外ロケがメインとなります。そして、このスタジオの初代所長となったのが元々は東映京都出身の内田有作でした。つまり、仮面ライダーのふるさとは東映生田スタジオだったわけです。ここは、まあ常識の範疇ですね。

小百合と仮面ライダーを繋ぐミッシング・リンク

■おや、内田姓って何か聞き覚えがありませんか?そうです、この方は小百合版『あゝ野麦峠』の監督予定であった内田吐夢の次男なんです。長男の一作は日活出身で初期仮面ライダーの名演出で知られますが、次男は制作部として裏から東映特撮シリーズを支えたわけです。仮面ライダーの裏に実は大監督内田吐夢が存在したわけです。不思議な縁ですね。
■でも、不思議な縁はそれだけではないのですね。この東映生田スタジオという名称は賃借した東映が自分で名乗っていた名称で、公式な名称はあくまで細山スタジオなんですが、実は内田吐夢の『あゝ野麦峠』はこのスタジオで、1969年10月以降に撮影される予定だったのです。内田有作が細山スタジオを発見する経緯については詳細不明ですが、案外父親吐夢からの情報提供があったのではないでしょうか。明確な証言は残っていませんが、大いにありうることではないでしょうか。まあ、内田吐夢の導きがなくとも、そもそも貸しスタジオなんて、選択肢は限られるので、自然と行き着くべくして発見されたのでしょうが。

内田吐夢という補助線

■ということで、仮面ライダー吉永小百合を結びつける不思議な補助線が存在することがご理解いただけたでしょうか。キーパーソンは実は内田吐夢とその一族だったのですね。『あゝ野麦峠』が予定通り製作されていれば、細山スタジオはもっと設備が整備されていたでしょうし、その後、引き合いがあって仮面ライダーの撮影には使用できなかったかもしれませんし、設備が充実していれば、仮面ライダーのステージ撮影が増えていたかもしれないし、画作りが変わってきたかもしれません。でも、当時の東映の制作部が口を揃えて語るように、細山スタジオの設備の貧弱さも、小百合版『あゝ野麦峠』の頓挫の一因ではないかという気もするんですよね。
■誰しも呪われた映画、小林正樹の『怪談』を想起すると思いますが、あれも既存の撮影所が使用できず、宇治の日産車体の工場跡地の巨大倉庫にまず撮影所を建てたんですよね。そのおかげで製作費が膨大に拡大して、製作中から資金ショートが連続し、俳優陣からも資金援助を受けるありさまで、興行的にも不発、製作母体のにんじんくらぶを潰し、後々に禍根を残したわけです。あれと同様なきな臭い匂いがするんですよね。幻の映画『野麦峠』は、スタジオ設備の初期整備経費まで映画の予算で賄おうとしたのではないでしょうか。なにしろ、がらんどうの貸倉庫状態だったため、そうせざるを得なかったのでは。
■そもそも主要スタッフが戦前からのキャリアを持つ巨匠揃いで、当然季節感を狙った長期撮影が想定され、予算規模は膨張しがちな企画です。やっぱり金の問題が一番じゃないかと思いますが、八木保太郎も『ひろしま』なんて観ると、かなり歪な脚本も書いているので、老巨匠には要注意なんですよね。後年、本作と並行して映画化を検討していた全国農村映画協会の関係者の念願かなって山本薩夫版『あゝ野麦峠』が1979年に東宝で配給され、しかも大ヒットしたとき、吉永小百合の胸にはどんな感慨が去来したのでしょうか。。。
■ほとんど特撮っぽい話がありませんでしたけど、久しぶりの特撮研究、いかがだったでしょうか。実質的には、ほぼ、幻の映画研究でしたね。失礼しました。

急告!

■実は、小百合版『あゝ野麦峠』についてはシナリオの掲載された当時のキネ旬を入手することができました。ここでは書ききれなかった新事実があるので、後日別の記事を書きたいと思います。半年ほどの間に起こった映画製作をめぐるボタンの掛け違いによるプロジェクトの破綻の経緯は、非常に興味深いものがあります。黒澤版『トラ・トラ・トラ』ほどのスケールはないものの、同じ時期に同様の怪事件が起こっていたのです。細山スタジオ近辺でもこの映画を巡ってきな臭い動きがあり、そして、吉永事務所の小百合パパ問題が急浮上します!

参考資料

もっとも参考にさせていただいたブログです。細山スタジオの成立経緯が詳らかになる、素晴らしい資料の宝庫です。
taikino1.blog.fc2.com
www.thosenji.com
碧川道夫については、こちらを参照しました。戦前からの映画キャメラマンで、戦後は映画撮影技術に関するご意見番で重鎮でした。『あゝ野麦峠』の頃は日大を退官してフリーだったようです。
blog.goo.ne.jp

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*1:キネマ旬報 1969年12月上旬号 No.511にこのシナリオが載っていますが、未読。しかも、「特別ディスカッション 「あゝ野麦峠」をめぐる問題 八木保太郎×吉永小百合×山本茂実×大塚和×小口賢三×山岸豊吉」という特集記事が載っている。読みたい!