ICHI
2008 ヴィスタサイズ 120分
ユナイテッドシネマ大津(SC4)
脚本■浅野妙子
撮影■橋本桂二 照明■石田健司
美術■佐々木尚 音楽■リサ・ジェラルド
VFXスーパーバイザー■松野忠雄
監督■曽利文彦
■座頭市を瞽女を主人公としてリメイクした本作、監督はなぜか曽利文彦。というか、年代的にはテレビやリバイバル上映で勝新版に親しんでいるはず。殺陣はオリジナルに敬意を表して、オリジナルのアイディアも取り込んでいるが、当然のようにカット割りは細かく、高速度撮影も多用され、噴出す血飛沫は3DCG。利重剛が脇役で登場するが、役名が喜八というのも、監督の年代を感じさせる。
■「大奥」の脚本が案外健闘していた浅野妙子の脚本は、途中までは予想以上にいい感じで活劇魂を燃やしてくれるが、最後は結局甘いメロドラマになってしまう。とにかく、悪役の万鬼党という、江戸時代の宿場町には似つかわしくないかぶき者集団をもっと真面目に描かないと成り立たない物語なのに、腰が引けている。本来は、江戸時代という強固な身分制社会からはじき出された賤民たちの独立国というイメージが存在したに違いない(妄想か?)のだが、差別の問題をオブラートに包みすぎて、無かったことになってしまっている。盲目で、女で、流れ者という、身分制社会の負のカードを一手に握ってしまったヒロインが、差別を撥ね返して、ひとりの女として自立してゆくという物語が、説得力を持つためには、時代劇のリアリティ=江戸時代のリアリティに、もっと素直に頼るべきだったのだ。ゲームの悪役のようなファッションだけの悪役を据えても、江戸時代の日本に生きるヒロインの人間像を、現代に通じる人間像として彫り込むことはできないのだ。貧困や身分固定が社会問題となる現代日本を照射するドラマを構築せずに、この物語をリメイクする意義は薄い。
■ヒロインが幼い自分に居合い抜きの妙技を伝授した盲目の男(=座頭市?)を捜して歩くというプロットは、もっと泣かせるドラマを予感させるのだが、案外呆気なく片付いてしまい、腰砕け。盲目の男を描くのに、顔を見せずに表現するのかと思いきや、杉本哲太を堂々と見せたのは、勝新版座頭市とは別物、世界観は繋がっていませんよと宣言するためだったのだろう。
■例のサイボーグ映画でも人間離れした変な個性を見せた綾瀬はるかが、ここでも凛としたアウトローヒロインを演じて、とにかくアップの美しさで、観客を説き伏せる。顎のラインの鋭く力強いシルエットが、この女優の最大の武器だ。一方、大沢たかおが訳ありで優柔不断な侍を演じて、非常にいい味を出しているのが見所で、大悪の中村獅堂を完全に食っている。というか、最近の中村獅堂の演技には、「ピンポン」の頃の神通力は見られない。まあ、脚本が役柄を描きこんでくれないので、仕方ない面もあるのだが。
■しかし、いちばんの問題は、宿場を治めるヤクザを単純に肯定していることだ。もともと座頭市はヤクザ否定の物語であったはずだが、ここでは窪塚洋介演じるヤクザ者を積極的に肯定しているのだ。万鬼党という何ものなのかよく分からない悪役を設定しておいて、それに比べればヤクザの方がましという論法だが、あまりにも単純というか無神経というか、何の屈折も無くヤクザを肯定するとは、何を考えているのか。さらに罪が深いのは、この映画の製作がTBSであることで、社会の公器であるテレビ局がこうした主張を堂々と展開している点である。民放の雄TBSの権威は、オウム事件の頃、つまり既に10年以上前に地に堕ちているわけだが、特別に電波送出を許可された放送を担う会社としては、あまりに社会的責任に欠ける姿勢ではないか。このことについては、もっと社会問題化してもいいはずだと思うがなあ。
■製作はTBS、ジェネオンエンターテイメント、セディックインターナショナルほか、制作は、セディックインターナショナル、シネマカフェ。