大スクリーン&フィルム上映で観る『非行少女』は格別だった!

基本情報

非行少女 ★★★★
1963 シネマスコープ(モノクロ) 114分 @京都文化博物館

感想

■初見時の感想は以下の記事を御覧ください。
maricozy.hatenablog.jp

■今回は京都文化博物館のフィルムシアターでフィルム上映を観てきました。何年ぶりでしょう。昔通っていた頃は、まだ椅子がパイプ椅子で、それはそれでなんだか楽しかったですが、今は普通の映画館仕様に改装されました。

■実は日活映画をスクリーンで観たことはあまりなくて、それこそ京都文化博物館で『須崎パラダイス 赤信号』(これはホントにキレイなプリントで、白が文字通り銀幕の銀色に輝くモノクロ撮影だった)なんかは観てますが、裕次郎の映画なんてスクリーンでは観たことがないですね。考えてみると。

■最近アマプラで日活のモノクロ映画を観ると、リマスターが凄くて、ディテールが精細だし、ツヤツヤだし、陶然とする画質なんですが、ほんとうにあんなにキレイだったのか?という疑念が去りませんでした。過去に東宝大映のモノクロ映画はフィルム上映で観てますが、あんなにキレイな画質じゃなかったですからね。白は純白ではなく、黄ばんだ灰色だし、濃い黒は締まりがなく墨汁のように滲んでいたりする。もちろん、キャメラマンの狙いでそうしたタッチを狙った映画もありますが、同じモノクロ撮影といっても、かなりタッチが違う。

■日活リアリズム路線のモノクロ撮影はいかなるものか、それは本作が好見本となるでしょう。ということで、スクリーンでどう見えるかが興味深くて、久しぶりに京都ぶんぱくに出かけましたが、映画の途中からそんなことはどうでもよくなりましたね。和泉雅子が良さすぎるから。

■確かに白い部分はかなり濁っているし、黄みを帯びているのは、やはり各社共通で、精細さもリマスター版のようなカリカリの高精細ではない。なるほどこれがフィルムのタッチでしたね。懐かしい。やはり、デジタルリマスターはちょっと化粧しすぎな気がするね。

■しかし、画面の右はしが切れていて、大塚和の名前が半分見切れているのは困りもの。シネスコって、本当に思っていた以上に横長なんだね。

■前半の非行少女の下りは、東映の不良モノなんかと比べると、どこが非行なのか?と感じるほど長閑で、あまりピンとこないのだが、後半の教護院の場面が素晴らしくて、感動的だ。似たような境遇の少女たちが、世間の差別的な視線に対する反抗から気持ちを通じてゆくマラソンの場面は何度観ても泣かされるし、憎まれ役の小沢昭一の薄汚さが素晴らしい。小沢昭一って、東宝映画ではギャグ要員として芸人枠で登場するのだけど、日活映画ではれっきとしたリアリズム演技の名優なのだ。教護院のブサイクな少女たちの生なリアリズムも素晴らしくて、たしかに和泉雅子は「べっぴんさん」なのだ。

■教護院の雪の夜に浜田光夫和泉雅子を訪ねてくる場面は有名な場面だが、たしかに名場面で、画調は少し甘やかだけど、モノクロ撮影の効果を最大限に発揮している。顔面だけしっかりと照明が当たっている不自然な照明が、まったく違和感がない。甘さの極みのような表情で登場する浜田光夫の切なさは誰もまねできるものではない。

■海岸でうずくまる和泉雅子と、実の母親が死んだ病室でうずくまる姿を繋いだ場面など、不器用な浦山桐郎にしては上出来だし、一方で祭りの夜に学校に忍び込む場面で鏡に写った自分の姿にぎょっとする場面なんて、テクニカルな不器用さが丸見えだ。そんなB級映画いっぱいあるのに、観てないだろう、浦山!ラストの金沢駅の喫茶店浜田光夫が深く考え込む場面の、時計が早送りになる編集なども考えもので、浦山桐郎の表現力の限界ではある。バカ正直にリアリズムを追求すればいいのにね!

■クライマックスの金沢駅の喫茶店の場面は熱の入った演出であることは確かだけど、スタッフのなかでも違和感はあったみたいで、照明の熊谷秀夫もその趣旨の発言をしている。

■ちなみに、後半の展開は、和泉雅子が正月映画の撮影に抜けた間に、ラッシュを観た兄貴分の今村昌平の意見を聞いた浦山桐郎が脚本を練り直して、大幅に変わってしまったらしい。浜村純は首をくくって死ぬことになっていて、金沢ロケで撮影済みだったけど、没になったという。キネ旬データベースの梗概紹介では確かに大分展開が違うからね。もともとは浜田光夫が工場で組合の活動家に出逢って感化されるという展開だったらしいが、それは止めて正解だったね!

■当時15歳のまだ半分素人の和泉雅子を使ってここまで綺麗でシャープな表情を撮るというだけで、ひとつの事件ですよね。のちのアイドル映画の監督たちは、みんなこんなふうにアイドルを演じさせたいと願ったことでしょうね。相米慎二なんかはまさにその代表格でしょう。

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