基本情報
青春の門 ★★★
1975 スタンダードサイズ 184分 @アマゾンプライムビデオ
原作:五木寛之 脚本:早坂暁 撮影:村井博 照明:佐藤幸次郎 美術:村木与四郎 合成:三瓶一信 音楽:眞鍋理一郎 監督:浦山桐郎
感想
■なぜかこれまで見る機会がなかった本作、アマゾンプライム・ビデオでHD版がレンタルできました。しかも、途中で休憩が入る堂々たる3時間映画。でも、なぜかスタンダードサイズ。この頃東宝はなぜかスタンダードサイズの映画をいくつか作っていて、60年代まではどんな素材でも原則スコープサイズで撮っていたのだが、70年代に入るとお話の内容によってサイズが選択できるようになる。森谷司郎の『放課後』(73年)もスタンダードだったし、市川崑の『犬神家の一族』(76年)だってスタンダードだった。
■日活を離れた浦山桐郎が初めて他社で仕事をした記念碑的作品で、しかも興行的にヒットもしており、その時点では順風満帆だったのだ。しかも東京映画の製作ではなく、東宝映画本体の製作で、スタッフは『日本沈没』のメインスタッフが再結集しているから、完全に大作仕様。でもせっかくの大作なのだから、シネスコサイズで撮ってほしかったなあ。
■昭和初期の筑豊炭鉱での重蔵(仲代達矢)の武勇伝から始まり、やがて主人公信介(成人後に田中健)が生まれ、重蔵は坑道に閉じ込められた朝鮮人坑夫を救うためダイナマイトで自爆する。重蔵とタエ(小百合)を争った昇り蜘蛛の竜五郎がもうひとりの重要人物で、中学時代に人を殺した過去を持つヤクザで懐の深い大人。後半は病身の母タエとともに信介が身を寄せて、男を磨くことになる。これを東宝初出演の小林旭が演じるのが本作の肝。浦山桐郎が初めて東宝に乗り込むのに旧知の吉永小百合と小林旭は必須と考えたらしいが、東宝としても大物二人は興行価値からいっても必須だったろう。特に吉永小百合についてはなんとか口説けと、浦山桐郎は東宝に要請されたに違いない。
■そもそも本作の企画はすでにロマンポルノ路線に移行していた日活の二十周年(たぶん)記念映画として企画されていたもので、ロマンポルノがすっかり定着して興行的にも旨味が出てきたので、企画ごと東宝に引き取られた経緯がある。そのときから早坂、浦山、吉永の企画だったらしい。東宝の番線に唐突に浦山桐郎が出現するにはそうした裏話があったのだ。さらに言えば、日活の熊井啓がやはり日活で吉永小百合主演で用意していた『忍ぶ川』が座礁して、東京映画に引き取られて東宝系で公開した経緯もあり、日活の優秀な人材を自社に招きたいという風潮が東宝社内にあったかもしれない。ロマンポルノの旗手神代辰巳や藤田敏八まで招聘しているから、この風潮は明確な方針だったのだろう。
■そもそもなぜ脚本が当時はテレビで大活躍していた早坂暁なのかといえば、60年代末ころに野坂昭如主演の『黒メガネの遁走曲』という幻の映画で浦山と組んでいたのだ。その後、70年代前半頃に日活主導で『青春の門』の想を練っていたと思われる。
■一応主人公は信介なんだけど、本作の時点ではどちらかといえば狂言回しに近くて、信介を中心として、周囲に様々な男たち、女達が絡み合うという構成になっている。五木寛之先生の原作なので(?)、『青春の門』の「青春」は「性春」であり、「門」は「菊の門」でもあるという露骨に性的な含みがある。前半は少年時代なので織江も幼女で、それでも「お医者さんごっこ」をストレートに描くからヒヤヒヤする。
■休憩を挟んで後半は信介が中学生となっていて、アメリカ人記者の愛人となっている高校教師の関根恵子が儲け役。彼氏は朝鮮戦争の取材にでかけて死んでしまうわけだが、朝鮮戦争はいったん火が消えかけていた炭鉱に活気を呼び戻すことになる。関根恵子がやけ酒を煽り、庭で放尿し、池に転落するあたりの芝居の段取りは浦山らしい。
■さらに大竹しのぶが成長した織江として登場し、信介と初めて結ばれる安宿の場面は、大竹しのぶがさすがにすべてを持ってゆく迫真の演技。大竹しのぶは浦山の傑作『私が棄てた女』の運命の女・小林トシエの娘として登場し、たしかによく似たどっしりとした体躯で信介を追って走り出す。そのドタドタした不格好な走り方こそ母娘の相似形であり、浦山の偏愛する女そのもの。
■そして問題として浮上するのが前半の実質主演である吉永小百合なのだ。実のところ吉永小百合はこの映画は自分には演じられないからと何度も固辞したのだが、浦山に口説き落とされて出演したもので、最終的にやはり自分の役ではなかったと総括している。でも色んな意味で勉強になった映画だったと。何しろ、原作者の五木寛之からなんで吉永くんは脱がないの?とツッコまれたのは痛かったらしい。
■実際気の毒だと思いますよ。演技的には決して悪くなくて、しかも結婚前後のドタバタや両親との確執を経てかなり痩せていて、日活時代のぷくぷくした健康的な少女からイイ女に変貌しているからほんとに綺麗なんですよ。しかも仲代達矢との濡れ場や淫夢に悶える場面を信介に目撃されたり、ついには地の底の坑道で仮眠中に小沢昭一に身体を許したり、お色気シーン満載。東宝としてはこれを本作の最大の売り物と考えていたに違いないのだが、想像以上にハードな役なのだ。でもそれはそれで脱がないでも成立しないわけでもないのだ。
■問題は後半で続々登場する女達、関根恵子や大竹しのぶが文字通り体当たりでバンバン脱ぐものだから、この映画における裸コードがどこにあるのか混乱することにある。そもそも後半も皆脱がなかったら、吉永小百合が非難されることはなかったはずなのだ。しかも回想シーンだけで唐突に小林トシエまで裸体を晒すもんだから、吉永小百合に対する身内からの批判にも見えてしまうという不手際が生じている。浦山桐郎にはそんな意図はなかったと信じたいが。
■他にもいいシーンがいくつかあって、ロートルヤクザとして登場する藤田進が晩年の名演を見せる朝鮮人活動家の事務所殴り込みの場面は傑作(日本と朝鮮は隣同士。助けられたり、助けたりじゃ!)だし、小沢昭一が積年の吉永小百合に対する思いを遂げる地下坑道の場面はやっぱり良いと思うよ。
■さらに浦山らしく戦前から戦後における朝鮮人労働者のエピソードを大きく扱っているのも貴重。今村の『にあんちゃん』に助監督として参加して以来、朝鮮人労働者の問題は彼にとって不可避だった。『私が棄てた女』では自身の分身を演じた河原崎長一郎が大役で、吉永小百合に思慕を寄せ、信介のメンターともなり、最終的に殴り込み事件で決定的に立場の違いが鮮明となって訣別することになる。
■さらに信介の義母タエに対する性的な愛着をラストで露骨に描くのは、浦山桐郎の私小説的なこだわりで、浦山は幼い頃に実母を亡くしており、母と思っていたのは母の妹だったという経験がある。しかも、成人してから継母にのしかかって制止されたことがあると述懐しているから、そのまま自身の経験を再現しているのだ。
■大正から昭和にかけての出来事を記録映像に載せて小沢昭一が紙芝居のように物語るというスタイルは、わかり易さ重視だろうが、やや蛇足感がある。塙組で信介を性的に導く若衆が『ゴジラ対ガイガン』で世界こどもランド会長役だった藤田漸で、露骨に衆道を描いているのも、さすがに五木寛之だなあ。(原作読んでないけど)