吉永小百合版『あゝ野麦峠』製作中止事件とは何だったのか(3/3)

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(承前)

あえて大胆な仮説を!

■前の記事で、繊維労連とか全農映といった組織が出てくるのは、吉永事務所とは別に、原作を元に映画化の機運があったところに、赤旗の記事で吉永事務所の動きが明るみになったので、急遽調整に動いたという経緯です。この頃は、こうした運動組織が人員と金を持っていたので、映画を製作する地力もあるし、動員してペイする地盤があったのです。ある意味、吉永事務所はそちらと組んでおいてほうが、興行的に成功できたかもしれません。日活は配給せず、松竹映配で配給するという話も画餅だったようなので、闇は深いですね。

■以上のように八木保太郎による第一稿は、着手する前に八木が何度もどんな映画にしたいのかはっきり意見を言うように水を向けたにも関わらず、吉永事務所側が何も具体的なことを言わなかったため、大きくイメージのズレるものになってしまいました。実際のところ、吉永小百合のファンが喜んで観て満足するとは思えない脚本になっています。八木保太郎ももう少し商売を考えた親切な脚本を書くべきと思います。正直、大人げない気がしますが、製作者が何も注文をつけないのだから、ある意味何の制約もなく、書きたいものを描いたということでしょう。

■あるいは、吉永事務所とはいえ、メジャーではない独立プロなのだから、昔ながらの独立プロテイストで書いたということかもしれませんし、それが宇野重吉の意図だったのかもしれません。宇野重吉の思いとしては、せっかく吉永事務所が直接製作するのだから、社会的にも意義のある、第二作以降にもつながる品質の高い、ある意味ハードな作品を作れば、それが吉永くんの飛躍につながるという親心だったかもしれません。そのために敢えて甘い映画にしたくなかったのかも。

■急遽別稿を書かされたのが劇団民藝の劇作家、大橋喜一ですが、もともと民藝でも演劇化を想定して資料などは準備していたとのことです。大橋喜一は日活映画『愛と死の記録』の脚本も書いており、実際に良くできた脚本だったわけで、吉永事務所の受けも悪くはなかったでしょう。しかし現在のところこの大橋稿は参照することができません。遅ればせながら吉永事務所から出てきた意見、イメージを踏まえて、八木版よりも叙情的に書かれることを事務所側は期待したのですが、やはり大橋稿はドキュメンタリー・タッチになっており、イメージが違うと判断したようです。吉永事務所としては明治期の野麦峠を中心とするドラマにしたかったようですが、宇野重吉にお任せで、その意図は明確に発注されていなかったようです。

仮説その1:資金繰り説

■以前の記事でも触れたように、製作中止の理由は藪の中ですが、敢えて妄想を交えて邪推してみましょう。予算問題は確実に存在したでしょう。

■大塚和が全体を把握していればそんなことはなかったでしょうが、吉永(父)がプロデューサーで仕切る部分があり、さらに宇野重吉に預けたという無責任部分があり、全体として把握できている人がいない無責任体制に陥っていたように見えます。そもそも美術担当が誰だったのかも話が一切出てきません。美術予算が製作費の大半だと言うのに。おそらくは独立映画系のデザイナーでしょうが、これも謎です。そもそも吉永(父)には積算できないので、民芸映画社側の制作担当者が算盤を弾いていたはずですが、宇野重吉はどこまで把握していたのか。

■前述の通り、撮影拠点となるはずだった細山スタジオの周辺でも施設所有者とは別の某人物が施設を私有してしまう問題が生じており、この映画に絡んで甘い汁を吸おうと考えたのではと言われています。その利益分配で内部分裂を生んだとの証言は興味深いですが、そこには民藝映画社も絡んでいたかもしれません。吉永(父)が直接スタジオ探しや賃貸借契約を行うとは思えないからです。

■あるいは、製作費は1億円を計上していたと言われますが、追加融資に関して銀行からこのシナリオでは融資できないといった吉永事務所側の資金繰りに関する誤算があったのかもしれません。

仮説その2:さる筋からの圧力説

吉永小百合がハッキリと中止の理由を説明しないので、宇野重吉すら以下の通り憶測しています。

「小百合君は、シナリオが自分の考えていたものと違う、ということを理由にしているけれど、ずっと進行をはかどって来た私から見れば、これが決定的な問題だとは思えない。

実は、小百合君に製糸工女が赤旗をふり立ててストライキをやるような映画を作らせまいとする圧力が、不思議な筋をたどってかかって来たものとしか考えられないのである。」
 
出所:以下のサイト記事から「民藝の仲間121号・あゝ野麦峠」誌の「『あゝ野麦峠』について」の記事を孫引き。
www.thosenji.com

また、碧川道夫も以下のように推測します。

「ところが、製作を始めたとたん、あるところからブレーキがかかりました。紡績界の内部に、深く突っ込まれ、昔のことを洗いざらいされると困る人々がいたのです。わずか四百フィートほど、それも蚕さんの実景を回し始めたところで、ストップ。それで、吉永サイドが、スタッフに、賠償金を支払いました。ここで吐夢の『ああ野麦峠』はお蔵入り、頓挫してしまったのである。」
 
出所:山口猛編『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』

しかし、これはいかにも穿ち過ぎの印象です。配給すらまともに決まっていない吉永事務所の自主製作の映画を潰さなければならいほどの理由はどの団体にも存在しないでしょう。おそらく宇野重吉吉永小百合および吉永事務所をかばうために敢えてこうした責任転嫁の言い方をしているように思えます。

■敢えて言えば、もともと映画化を構想していた全農映とか繊維労連が映画の内容が意に染まないから横槍を入れて中止に追い込んだという風な話でしょうが、これまでの資料によれば無理があると思います。

仮説その3:吉永(父)の意に染まなかった説

■端的に言って、一番有力なのは、吉永(父)が意図的に頓挫させたという説です。何故なら、本作の前にも同様の前科があったからです。話は昭和41年に遡ります。そうです熊井啓の日活版『忍ぶ川』事件です。

三浦哲郎の小説『忍ぶ川』は発表当時から映画化のオファーは少なくなくて、東京映画が権利を得ていたけど、契約切れになっていたのを熊井啓が脚本化、そのときは吉永小百合の主演は想定していなかったが、日活の横山実プロデューサーが純愛路線のテコ入れを意図して吉永小百合の主演で江守常務の承諾を得ます。ところが、完成した脚本と演出イメージについて吉永(父)がダメ出しをしてお流れになったという事件です。

吉永小百合自身は乗り気だったものの、劣性遺伝への言及や初夜のヌードシーンを吉永(父)は毛嫌いしました。その後、東京映画が仕切り直して、昭和48年に俳優座と組んだ『忍ぶ川』が公開され、評判を呼びます。『忍ぶ川』にしても『あゝ野麦峠』にしても、その後東宝系で公開されて、批評も高く、ちゃんと興行的に大ヒットしているのがなんとも哀しいところです。

■『あゝ野麦峠』についても吉永(父)には明確なイメージがありました。娘主演の叙情的な女工哀史であり、主題歌も歌わせる。それならそうと始めにメイン・スタッフにこの映画の完成イメージを説明しておくべきなのに、基本的に無責任なので(?)宇野重吉に投げっぱなしで、スポンサーなのにギリギリまで自分の意見を言わない。それも、自分の口から言うのではなく、娘や妻に託してしまう。結局そうした個人的なパーソナリティの問題に集約してしまうのが、なんとも淋しい限りです。しかし、宇野重吉にしても吉永(父)の難儀な性分は聞き知っていたはずで、十分警戒すべきだったとも感じますが、劇団運営もあるなかで、関係諸団体と調整を一人で行っていたらしく忙しかったと思うので、ホントに骨折り損で気の毒な立場なんだけどね。

■あるいは娘が勝手に暴走しているけど、最終的にはお金を握っている自分の拒否権で潰せるから黙って放っておこうという意地悪い信念があったのかもしれません。だから、父の言うことを聞いておればよかったのにと娘を父の懐に呼び戻すのが真の目的だったのかも。(これはさすがに邪推がすぎるか)

■ただ、企画の途中から、別ラインで映画化を検討してきた全農映とか繊維労連が絡んできて、宇野の調整の末、製作委員会的な体制となったことも事態を複雑にしていると思います。彼らは、これまでのような小百合映画では困ると主張し、宇野も納得し、吉永小百合も納得したが、多分、吉永事務所としては、主導権を取られるのを恐れたことでしょう。端的に言えば左翼映画となることを。吉永小百合はそれでも構わないくらいの気持ちだったろうが、吉永(父)は絶対に反対だったはず。そこに吉永事務所内で大きな溝があったわけでしょう。なお、全農映は後に山本薩夫で『あゝ野麦峠』を映画化した組織ですね。

■ちなみに、吉永(父)の難儀な人物像については以下の著作が詳しいです。でもかなり意地悪な視線で描かれているので、割り引いて考える必要があるようにも思います。そりゃ、父親にとって娘は可愛いですからね。家族がマネージメントする限界でしょうね。

事件の総括

■1969年(昭和44年)といえば、『トラ・トラ・トラ』の制作を巡って、黒澤明監督の不可解な解任事件から始まった、日本映画界にとっては斜陽の象徴的な年です。同じ年に『トラ・トラ・トラ』ほど話題にはならなかったかもしれないけど、日本映画史的に非常に興味深い事件が起こっていたことは記憶と記録にとどめておいて欲しいと思います。

■この事件の後、吉永小百合は映画製作は二度と手掛けないと誓ったと言われますが、2005年以降、東映岡田裕介社長の肝いりで、東映の全面的なバックアップを受けながら実質的なプロデュースにも乗り出して成功します。「北の三部作」などがそうですね。どれもかなりの大作ですが、吉永小百合の意向を汲んだ企画開発が行われたようです。『野麦峠』での挫折体験は決して無駄ではなく、過去のトラウマ体験を克服したというわけですね。

■さらに言えば、吉永小百合本人が全ての詳細を何らかの形で残しておいてほしいと思うのですが。この事件は吉永小百合のキャリアのなかでトラウマ的な扱いになっており、本人の人生でも一番辛かった事件かもしれませんが、後年の映画史研究のためには、何らかの資料を公開してほしいと強く思います。

■以上、幻に終わった吉永小百合版『あゝ野麦峠』映画化中止事件の顛末について3回にわたり概要を整理してみました。この件については、当時の劇団民藝の機関誌『民藝の仲間』とか吉永小百合ファンクラブ会誌 『さゆり』の記事にもっと詳しい情報が出ていた可能性がありますが、まだ調査が及んでいません。どなたかに追加調査をお願いしたいところです。(了)

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