いま、なぜに『平家物語』

■吉田玲子が脚本を書き、山田尚子が監督したアニメーション『平家物語』を観ましたよ。録画してあったのですが、やっと観ることができました。いまではアマプラに入ってますから、見放題ですね。

■正直なところ、前半はあまりパッとしない感じでした。なにしろ、吉田&山田コンビなので、登場人物の字幕紹介なども一切なしで、非常に高いリテラシーが要求される。清盛はいいとしても、重盛、維盛とか、字幕がほしいねえ。

■それに個人的にお気に入りのエピソードである祇王と仏御前のエピソードも割愛ししすぎで、どんな話なのか、話の肝はなにかがわからない。描かれていないからだけど、勿体ない。そう感じた。

■同じことは俊寛のエピソードでも感じさせられ、有名なエピソードなのにこれだけ?と感じさせる。でも、終盤に入って、吉田玲子の計算に狂いはないことが分かってくる。このあたりがさすがに吉田玲子の仕事と感じさせる。NHKの『十七歳の帝国』も観たけど、あれは不完全燃焼だった。

■その違和感は、一話完結のつもりで観ていると募ってくるもので、これを一気に観ると違和感が減る。吉田玲子は大河ドラマのつもりで書いているからだ。そして、全編のクライマックスは何故か第9話「平家流るる」となっている。ここで、若く美しい敦盛が非業の死を遂げるのだが、脇役なのに他の平家一門以上に丁寧な演出だからだ。それに、狂言回しの少女「びわ」が生き別れた母と再開し、自分のすべきこと、できることは「祈る」ことだけだと、みずから覚るという大事な場面が描かれるからだ。この場面も簡潔ながら、見事な表現だと思う。

■本来は各エピソードに仏教説話的なテーマが盛られているところを、途中ではほぼオミットしている。そのためにかえって納得しにくいものになっていると感じる。祇王のお話にしてもそう。でも、ここにも吉田玲子の計算が働いていて、最終回で徳子が壇ノ浦で死にそこねて、生き恥をさらす形で仏門に入り、やがて悟りを得るという決着を用意しているから、途中では割愛したのだと分かる。我が子、安徳天皇を壇ノ浦の海に沈めて、自身は生きながらえる無惨な運命の、何者かにそうしむけられた人生の意味を悟ることになるのだ。このあたりの作劇には吉田玲子が映画版『ブッダ』を書いていることも影響していると思う。

■結局、最終的には見事な宗教ドラマになっているところが、本作の凄いところだと思う。人の世は生生流転、人生は泡沫の夢、そのことを叙事詩的に描き重ねてきて、でも最終的には宗教的な境地のなかで総括する。人にできることは祈ることだけ。人は行動の、物象の主体ではない。人の世が平和であるように、非業の死を遂げたものたちが来世で平安であるように、こうあってほしいと心のなかで、想念の中で、祈ることだけが精一杯の人の仕業であり、宇宙のなかにあってあまりにひ弱い人間の希望でもあると知ること、それが悟りなるものの姿なのだろう。

■なにしろ平家物語なので、軍記物としての活劇シーンとかスペクタクルも描かれるのだが、さすがにそこは予算の制約で厳しくて、惜しいなあと感じる。それこそ完全にオミットすればいいのにと感じる。ホントなら、邦画全盛期に東映映画の超大作で壇ノ浦の合戦なんて描くべきだったのに、なぜか映画がないんだよね。日本映画史の不思議。

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