彼らが求めた乳と蜜の流れる地!『蟻の街のマリア』

基本情報

蟻の街のマリア ★★★
1958 スコープサイズ 109分
原作:松居桃楼 脚本:長谷川慶次 撮影:竹野治夫 照明:平田光治
美術:平川透徹 音楽:芥川也寸志 監督:五所平之助 

感想

■戦後しばらく、隅田川言問橋付近の河畔の一角に実在したバタヤ部落を舞台に、宗教的な慈善の意志でそこに棲む貧しい子供たちを善導することに賭け、病を得てのち、自らの人生の最期を蟻の街で過ごすことを選んだ娘の数奇な実話をもとにした実録映画。製作は歌舞伎座映画という松竹の傍系プロダクションで、日本映画黄金期に製作本数の嵩上げのために各社とも傍系プロダクションを打ち立てていたのと同様の施策と思われる。

■ただ、北原怜子の聖人としての生き方をストレートに描いても単調な宗教映画になってしまうので、というか原作を書いたのが蟻の街で「先生」と呼ばれる思想的、実務的指導者であった松居桃楼なので、彼の視点から北原怜子と蟻の街の大きな転換点が、ある意味でシニカルに描かれる。それは脚本の長谷川慶次の視点でもあったかもしれない。彼女が実際に何をどう考えてバタヤ部落に接近し、命をささげるまで思いつめたのか、皆が知りたいそこは、実はあまり描かれない。父親に動機を語る場面はあるが、通り一遍であまり深堀していない。

■むしろ、「先生」が彼女の言動を、演技だと規定してしまうところがユニークで、「先生」の眼に彼女の言動がどう映ったのかが描かれる。彼にとっては、彼女の慈善は偽善ではなく、神の与えた役割を演じることが誠実に生きることだという理解なのだ。なにしろ、松居桃楼という人は劇作家でもあったから、そうした解釈になるのも、ある意味もっとも。蟻の街のマリアとしてマスコミの寵児となった後は、彼女にそうした演技を続けることを求め、療養に区切りをつけて1年後に蟻の街に戻った彼女に、もうあなたの役は終わったと冷酷に言い放つ。しかも、都庁との移転交渉の打開のために、彼女には都庁の前で死んでもらおうとまで言う、目的のためには人情も曲げる実利的なインテリを南原伸二(宏治)が好演する。

■本作は、戦後の混乱期に行先のない人々を集めてバタヤ(廃品回収業者)とその仕切りで生計を立てながら新しい共同体の姿を模索した社会運動の記録としても作られていて、都の土地を不法占拠した元やくざの会長(佐野周治!)が経済的な自立の道を探るさまも非常に興味深い。蟻の街のマリアのことを新聞で知った、フィリピンで死刑を待つ戦犯から手紙が届く場面も感動的で、そんな日本が実現したのなら自分の死は無駄でなかったと述懐する。

■なにしろ、戦後の混乱期なので、東京都も浮浪者の集落なら平然と火をつけて焼き払うということを公務として行っていた(まあ実際はヤクザとかにやらせてたのだろうけど)時代なので、次はいつバタヤ部落が焼かれるのかというサスペンスも盛り込みながらも、北原怜子の最期は、非常にクールに締めくくる。飯田蝶子が「うちは代々日蓮宗だから(耶蘇のすることなんて)関係ないんだよ」と繰り返す台詞が最後に涙を誘うのも定番のテクニックだがさらっと効果的だし、ラストカットは蟻の街の粘り強い交渉で勝ち取った移転先の深川八号埋立地の情景で締めくくる。いまはまだ荒涼とした荒れ地ではあるが、神から与えられたのではなく、彼女たちが人間の運動によって勝ち取った「約束の地」なのだ。

■主演は千之赫子で、後は脇役としていっぱい映画に出てたけど、名前と顔が一致しない人という印象だった。宝塚の娘役出身で主演作があるとは知らなかった。お世辞にもうまいとは言えないのが辛いけど。一方、ジャンという部落の若者が丸山明宏というのも異色。岩崎加根子が気位が高くて意地悪な元オンリーさんを演じて、これはもうピッタリ。他にも三井弘次とか浜村純とか多々良純とか須賀不二男とかおなじみの曲者ぞろい。

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