リメイク版「日本沈没」は性的寓話だった!?

 リメイク版「日本沈没」に関して、ひとつ思いついたことがあるので、備忘的に書き残しておく。

 「シナリオ」誌の9月号に完全版の脚本が掲載されており、これを読むと、今回のリメイクが恋愛映画に焦点を絞り込んで構成されていることがよくわかる。完成版の映画では存在しない場面も脚本には含まれており、脚本を読み通すと、確実に感動的なのである。また、ラストの草なぎ剛の自己犠牲の行動の意味付けが、映画よりもより自然に納得できるように書かれているのに感心した。ちゃんと、自己犠牲についての前振りが用意されており、この映画における自己犠牲の意味合いをある程度方向付けしているのだ。このあたりは、加藤正人成島出のベテラン2人で構成を練った成果が賢明な形で現れている。DVDで、脚本にはあり、撮影されたもののカットされた場面が復活したとき、ひょっとすると、さらに恋愛映画としての完成度が上がる可能性がある。逆に、単に冗長になってしまう恐れもかなりあるが。

 今回の「日本沈没」は日本列島の沈没という地球規模の大災害というマクロの状況と、童貞男(多分)と処女(ほぼ確実に)の出会いとセックスに関する逡巡というミクロの状況が対置され、マクロ状況とミクロ状況が重ねあわされて重層的な意味合いを生み出す、大胆な作劇が意図されていることに改めて驚いた。

 これは昨日突然気づいたのだが、改めて思い起こせば、草なぎ剛は、「抱いて・・・」とはにかみながら迫る柴咲コウに挿入する代わりに、日本海溝にN2爆薬を挿入していたのだ。クライマックスで草なぎ剛は、地球(?)と性交することで、日本列島という太平洋に漂う巨大な男根を呑み込もうとする巨大な海溝(女陰)が象徴する”何ものか”を鎮めるための生贄になったのだ。ずたずたに切り裂かれながら火山がマグマの血を流す様は、実は射精の前駆状態の見立てであり、最後の富士山の大噴火こそ、日本海溝と日本列島の前戯の果ての男の爆発的な射精そのものであり、男の屈服であったのだ。「日本沈没」の物語から、そうした構図を読み取った脚本家の奇想の精神は賞賛に値するだろう。(加藤正人さん、この読みで正解ですよね!?)

 「海底軍艦」などでは露骨だが、東宝特撮映画にはセックスの隠喩が連綿と下層に流れており、そういう意味では、本作は特撮シーン云々よりも作劇の視点において東宝特撮映画の伝統を正しく受け継いでいるのではないか。その意味で、樋口真嗣はこの作品で、円谷英二よりも本多猪四郎を志向しているのかもしれない。

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