山田太一✕クドカンの『テレビ朝日開局65周年記念 ドラマプレミアム 終りに見た街』

■原作:山田太一、脚本:宮藤官九郎、音楽:沢田完、演出:片山修

山田太一の有名なドラマが昔あったのだが、しかも2度も製作されていたのに、なぜか観のがしていた。なので今回のクドカンアレンジ版が初見。お話の筋立ては、まさに「トワイライトゾーン」で、その意味ではあまり新味はない。所々にテレビPの勝地涼の「眼」を提示して、この惨事は何者かに仕組まれたもの、というニュアンスを加味している。それをある人はユダヤ人といい、コミンテルンと言い、資本家階級といい、あるいは神というのかもしれない。

■結局ドラマの肝は、クライマックスで描かれるように、太平洋戦争末期にタイムスリップした若者たちがみんな軍国主義の精神に染められ、というかむしろ自らすすんでファシズムの世情に適応してゆき、過剰適応の様相を呈する怖い場面で、山田太一の言いたいこともここにある。戦時下という文脈に置かれると、純粋な若いものほど、その文脈の中に容易に取り込まれるし、生真面目だからそうしないといけないと思い込む。観ているあなただって、その世界に置かれれば、そうなるかもしれないよ。と内省させる。そうならない自信が、あなたにあるか?だから、そんな物騒な文脈や世情が形成される前に、それがまだ兆しであるうちに、まだその芽がまだ小さいうちに、叩き潰しておかないと、取り返しのつかないことになるのだ。世情が形成されてしまってからではもう遅いのだ。ということは、山田太一クドカンも明言しないけど、要はそういうことを言いたい(はずな)のだ。

■実際、演じる若者たちの台詞には、大人たちを沈黙させるだけの切実さがあって、山田太一版は観ていないけど、そこは山田太一のエッセンスだろう。山田太一て、なぜか若者の心を描く名人だった。『想い出づくり』『ふぞろいの林檎たち』とか。

■そして、大人たちは反論できなかったけれど、世情という空気に身を染めてゆく純真さの、その行き着く先は、廃墟と化した未来の東京であるというダメ押しを用意した。そこでも勝地涼は、軽薄に嘲笑っている。この世界の終末に見える大惨事の中でも、そのものだけは生き残って肥え太っているのかもしれない。それは単純な陰謀論に見えなくもないところを危惧するアレンジだけど。

■ゲスト出演で西田敏行(座ったままで動かない)とか橋爪功とか、ワンシーンだけ登場。三田佳子認知症の老人役デスよ。みんな、老けたね。

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