よく生きるとは、よく死ぬ事なり。神か?悪魔か?『鯨神』

基本情報

鯨神 ★★★
1962 スコープサイズ 100分 @アマプラ
企画:米田治、竹谷豊一郎 原作:宇能鴻一郎 脚本:新藤兼人 撮影:小林節雄 照明:渡辺長治 美術:間野重雄 音楽:伊福部昭 造形美術:大橋史典 特殊技術監督:小松原力 監督:田中徳三

感想

■祖父、父、兄を凶暴なセミクジラ鯨神に殺されたシャキ(本郷功次郎)は鯨神を殺すことだけを生きがいにしていた。鯨名主(志村喬)は鯨神を殺した者に家督と一人娘(江波杏子)を渡すと約束するなか、粗暴な流れ者紀州勝新太郎)が村娘エイ(藤村志保)に乱暴して子が生まれると、シャキは自分の子だと証言する。。。

■お馴染み?宇能鴻一郎芥川賞受賞作の映画化。特撮映画マニアにはおなじみの大作だけど、大橋史典の造形物はいつものように造形的な見栄えは立派で、卓越したセンスなのに、まったく柔軟性がなく、操演ができないため、撮影現場では常にお荷物になってしまうので、結局高山良策などに操演用の小型モデルが発注されることになる、なんてエピソードが有名ですね。実際のところ、大型の造形物はハリボテにしか見えず、ラストの浜に遺棄された頭部なんかも、まったく生物感がない。なので、ステージセットで撮影された鯨神の場面や船上の場面はどうしても苦しい。致命的に苦しい。

■なにしろ脚本を書いた新藤兼人自身が原作小説を「ゲテもの」と断じ、「『鯨神』は好きではありませんね。」と言い、「だからこっちも焼けくそで書いている。」と正直に告白しているので、やはり食い足りないのは事実。せっかくキリスト教の信仰がある村なのに、村の土俗の部分が描かれないし、鯨を捕って生活する庶民の生活史的な要素も皆無で、全体に観念的な描き方になっているのは、追加取材もなしで、書いたからだろう。これが笠原和夫だったりすると、当然に追加取材して仕込んだネタを盛り込むはずだ。

■特に解せないのはせっかく勝新太郎を配役しながら紀州という流れ者の刃刺しの人となりを全く描いていないことで、活劇映画なら欠かせないバックポーンの部分が全く描かれないから、単なる粗暴な男なのか、悪魔的なサディストなのか計りかねる。終盤のシャキと紀州の思いが相通じる場面は伊福部節の威力でしっかりと感動的なのに、もったいない限りだ。それに、いくら村の嫌われ者といっても、紀州の死骸が遺棄されたままというのも解せない。いちおう村民はキリスト教徒なんだから、いくら流れ者とはいえ、形だけでも弔いくらいはするだろうし、教会も示唆するよね、普通。

■実は最初にスクリーンで見たときに特撮云々よりも強烈だったのは、墨汁で描いたようなドキュメンタルな荒々しいモノクロ撮影のタッチで、モノクロ映画の表現力の深さに撃たれたこと。キャメラマン小林節雄の名を覚えたのも本作による。いや、増村保造の映画はテレビで観ていたけど、モノクロ撮影のこんなタッチは観たことがなかったのだ。

■鯨神を殺すことに憑かれた鯨名主を演じる志村喬はかなりの熱演で、さすがに説得力溢れる名演と言ってもいいと思うし、藤村志保は脚本が描きこんでいない村娘のニュアンスを自然と体現するから立派なもの。東映時代劇なんかではかなりステロタイプな演技になりがちな役どころだけど、歩く姿の足運びだけで役の情感を醸し出してしまうから感心する。ホントに藤村志保は若い頃から天性のいい役者だったのだ。改めて観て凄いと思いましたよ。対する名主の娘の江波杏子は演技の質ではなく、もっぱらビジュアル重視の撮り方で、照明効果と造形美で映画的な表情を切り撮るスタイル。それはそれで江波杏子の天性の素質で、怜悧で鋭角的なビジュアルは、まさに映画のための造形美。

キリスト教的には鯨神は悪魔と呼ばれ、悪魔に魅入られてはいけないと諭されるのだが、村民にとっては日本古来の荒ぶる神として描かれる鯨神。最終的に鯨神を仕留めたシャキは鯨神と自分の一体感のなかで息絶えてゆく。神と悪魔。他者と自己。死と再生。それは対立構造ではなく、循環構造であるという哲学的な宇宙観(われながら良いこというなあ!)が示唆されるお話だが、実際のところ脚本が煮詰まっておらず、多分新藤兼人もそのあたりは腑に落ちないまま書いてますね。正直、新藤兼人の守備範囲ではなかったと思いますよ。断ればよかったのにね!

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