『愛を乞うひと』

愛を乞うひと [DVD]

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基本情報

1998/ビスタサイズ
(98/9/26 日劇東宝)
原作・下田治美 脚本・鄭義信
撮影・柴崎幸三 美術・中澤克巳 
照明・上田なりゆき 音楽・千住 明
SFXプロデューサー・中子真治
ビジュアル・エフェクト・スーパーバイザー・橋本満明
監督・平山秀幸

感想(旧ブログから転載)

 劇場公開された衝撃の予告編から、野村芳太郎の「鬼畜」「震える舌」以来の児童虐待映画として臆病な日本映画ファンの心胆を震え上がらせていた話題の映画が、遂に公開された。しかも予想を上回る容赦ないえげつなさである。
 主人公の原田美枝子が台湾人の父親の遺骨を探す過程と母親の豊子から理不尽な虐待を繰り返されていた昭和20〜30年代の記憶がカットバックで描き出され、彼女が無意識に母親探しの旅路を辿っていたことが浮かび上がるという構成で、ラストには当然のクライマックスが用意されているのだが、寂れた漁港の美容院で演じられるこのシーンのはらむ戦慄は、クローネンバーグの「戦慄の絆」を凌駕し、デビュー作の「マリアの胃袋」を黒沢清が誉めていたからとか、「学校の怪談2」で岸田今日子に掟破りの演出を試みた監督だからといった消極的な評価の次元を超えて平山秀幸が恐怖映画作家としての真骨頂を開示した瞬間と見るべきだろう。
 そこにはいわゆる「母もの」映画の母娘再会のメロドラマどころではない先鋭的な恐怖の手触りが造形されているのであり、この映画の真の感動の源泉はその恐怖の質にこそかかっているのだ。さらに、そうした恐怖の演出を「学校の怪談」シリーズのSFXスタッフが作画合成やデジタル合成といった技術を総動員して着実に支えている点に改めて感動する。
 といっても、クライマックスの二人一役の込み入った合成プランには舌を巻くとしても、ふんだんに配置された作画合成に関しては作画レベルに如何ともしがたい品質的な問題が明白で、こうした時代がかった風景の作画は本来ならば石井義雄らのベテランマットアーティストに任せるのが筋なのだろう。大ベテランの作画家がほとんど引退したり、鬼籍に入ったりしてゆく中で、本当に作画力のあるマット画家の養成は日本映画界にとって急務だと思うのだが。
 原田美枝子一人二役の演技自体は、正直言って、特別優れたものではない。しかし、脚本や演出の巧妙な仕掛けの中で、十分に主演俳優として機能して、こうした特殊な映画を成立させていることには認めなければなるまい。
 一方、台湾人の父親を演じる中井貴一は、減量が功を奏して外見的にはほぼ文句のない役作りなのだが、如何せん持ち前の発声の悪さが災いしている。悪い役者ではないのだが、顔つきの精悍さも声質の渋さも父親佐田啓二には遠く及ばないのは、なんだか気の毒に思えてくる。
 いきなり激昂して我が娘を打擲する豊子という怪物じみた人間像の描写には平山秀幸の卓抜した演出プランが大きく寄与しており、そこにはおそらく「悪魔のいけにえ」のトビー・フーパーが影を射しているにちがいない。「悪魔のいけにえ」のサディスティックな恐怖が、レザーフェイス自体ではなく、その被害者となる若い女の大きく見開かれた眼やひきつった表情のアップ、狂乱して泣き叫ぶ声といった細部によって構成されていたことを思い出せば、この映画での豊子の恐怖の描き方の巧さに納得がゆくだろう。原田美枝子レザーフェイスのようにただ淡々と暴力を振るうだけでよかったのだ。
 さらにそのことは、クライマックスシーンを締めくくる極め付きのカットに結実している。あのカットこそ、まさに「悪魔のいけにえ」のラストシーンに照応しており、ここにおいて平山秀幸は鶴田法男、黒沢清の域に肉薄している。

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