「最良の日、最悪の日」

 えー、最近、小林信彦の時事エッセイを集中的に読んでいます。これは、週間文春に連載の「人生は五十一から」の第二集。1999年のエッセイを纏めたもの。
 小林信彦といえば、江戸っ子原理主義、関西だけに限らず、地方住民に対する差別意識を隠そうとしない、関西人から見れば特異な自意識のせいで、どうしても胡散臭い印象が拭えないのだが、集中的にこのエッセイを読んでいると、ついつい引き込まれて、膝を打ってしまうから我ながら単純だ。
 特に、”<戦争を知らない>大人たち”や”<演歌>は死滅するか?”とか”<戦中>の話をしようか”などの回が興味深い。吉本隆明の「私の『戦争論』」を読む気になったのもこのエッセイのおかげ。なんと言っても、戦争経験をベースにして、アメリカのバカさ加減や、わが国の政府首脳陣の無能さを炙り出すあたりは、さすがに余人の真似できない境地である。
 大岡昇平の「野火」の一節、「戦争を知らない人間は、半分は子供である」という引用も痛烈。別に”戦場に駆り出されたことの無い人間は半人前だ、何も言う資格はない”と言っているわけではなく、戦争の実態、実情を経験として知らず、追体験として知ろうとする努力すら怠る人間はいつまで経っても一人前の判断を下す素養が備わらないということだろう。何かというと、すぐに”売国奴”だ”国賊”だと、旧弊にまみれた死語を引っ張り出して、戦後の60年以上の時間が無かったもののように硬く閉鎖的な態度をとろうとする、近年顕著な若者たちのプチ右翼化傾向に対する的確な反論といえるだろう。本当に戦争を体験した者に真摯に学ぶことをしないと、大きな間違いを仕出かすに違いない。
 ”<演歌>は死滅するか?”の回は、まさに眼から鱗といった感じで、演歌というものが意外にも戦後生まれのごく新しい音楽様式であることを知らされる。もともとは明治の自由民権運動の演説節に端を発するとはいえ、その後は戦争を挟むこともありいったん下火となり、1960年代に大ブレークしたという意外や意外な来歴に空いた口が塞がらない。別に日本人の心性に深く食い込むほどの歴史を持っているわけではなかったのだ。

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