感想(旧ブログより転載)
小津安二郎が東宝系の宝塚映画で撮った唯一の映画で、美術には主に大映多摩川撮影所で活躍した下河原友雄を据えるという独特のスタッフ編成で、宝塚映画の美術スタッフが精魂込めた美術装置の質感は松竹映画と異なりかなり重厚である。
造り酒屋の大旦那(中村鴈治郎)が京都に住む昔馴染みの女(浪速千栄子)のもとへ入り浸りになるにつれ病を得てあっけなく死んでしまうまでのドラマと、その娘たちの恋愛を並行して描いた脚本は、松竹の諸作と比べるとあまり完成度が高いとは思えないし、すでに自らおばあちゃんと自嘲するほど年季を経た原節子やまだまだ演技的に未熟な司葉子らのエピソードは精彩を欠いているように思えてならない。
一方、中村鴈治郎の死をめぐるエピソードは実に特徴的で、ある意味ではこれは死臭の立ち込める怪奇映画のようでもある。心臓の発作で絶望視された鴈治郎がすたすたと起き上がって立ち歩く場面など、一種のゾンビ映画の演出と見る事ができるだろうし、映画のラスト近くに唐突に挿入される望月優子と笠智衆の場面などどう考えても三途の川の渡し守、あるいは神代辰巳版の「地獄」では浜村純と毛利菊枝(凄いコンビだ!)が演じた懸衣翁と奪衣婆のイメージに違いないだろう。
小津晩年の作品における死のイメージは遺作の「秋刀魚の味」でも顕著であり、ラストで笠智衆が口にする一杯の水も、この映画で笠智衆が洗物をしていたあの川から汲み上げられた水であったに違いない。
戦前の作品の事情には疎いのだが、戦後の小津映画に横溢する死とエロスの主題が、笠智衆と原節子というシンボルとともに禍々しく、かつ淫靡に表現されるさまは、立派に怪奇映画的であると言えるのではないだろうか。