さすがの木下節!意外にシビアで心に沁みる病妻ものの秀作『妻の日の愛のかたみに』

基本情報

妻の日の愛のかたみに ★★★☆
1965 スコープサイズ 89分 @アマプラ
企画:原田光夫、清水一郎 原作:池上三重子 脚本:木下恵介 撮影:小原譲治 照明:木村辰五郎 美術:間野重雄 音楽:木下忠司 監督:富本壮吉

感想

■いわゆる典型的な難病もの、なかでも病妻ものと言われる企画で、端的にお涙頂戴映画。だけど大映映画なのに木下恵介が脚本を書いているところが異色で、音楽もコンビの木下忠司なので、映画のニュアンスも完全に松竹映画だ。スタッフも、キャストも大映生え抜きだけど、大映映画感が皆無というのも凄い。大映の歴史の中では相当の異色作。

木下恵介は『香華』のあと、松竹と関係が悪化して独立し、テレビドラマの製作に軸足を移していた時期で、大映が連続して3作の脚本を依頼している。本作のあと『野菊の如き君なりき』『愛の手紙は幾歳月』をほぼ同じスタッフで製作しているのだ。『野菊の如き君なりき』のリメイク企画が先かと思いきや、本作が最初の取り組みで、結果が良かったので、三部作になったのだろう。
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■小学校の先生夫婦は睦まじい若夫婦だったが、妻(若尾文子)が難治性リウマチ症で半身不随となり、病院と嫁ぎ先を行き来するうち、子も産めず、何の役にも立たない自分が夫(船越英二)を苦しめていると思い悩む。。。

■基本的に実録映画で、最終的に妻が亡くなるよくあるやつかと思いきや、そうではなくて、妻から夫に離縁を迫り、納得させるまでで終わるのでちょっと驚く。このあたりは、増村映画での若尾文子をちょっと彷彿させる。

■実際に原作者はまだ闘病中で、その後施設に入ったが、かなりの長寿を生き抜いたらしい。そっちの方も、凄いと思うけど、映画は彼女の少し遅い青春の煌めいた時代を描いたものだ。その切り口が、単なる病妻ものにとどまらない普遍性をもたらしたし、約1/3のところで発病してからの展開が、さすがに木下恵介で、テーマ性とその深耕が見事だし、映画的なモチーフの展開についても絶妙。まあ、いつものお得意の技なんだけど、たった90分でこれだけ過不足なく描けるのかと感心する。時間の省略がいかにも松竹メソッドで、がんがん時間が飛躍するのに、まったく違和感がなく繋がっている。このあたりは名人芸を見る感じ。

■柳川ロケもなかなか精妙で、決して観光地的な景色を狙わず、むしろ地味な情景を主舞台としている。その中で、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」の「方丈記」の有名な冒頭を被せて、非常にわかりやすくて、実に腑に落ちる映像と音声の合作を見せる。このあたりの作劇も、極めて通俗だけど、あまりに見事なので感心した。

■ある意味大映オールスター映画で、藤村志保と姿美千子が出ているけど、完全に脇役扱いで、姿美千子なんてアップすらない!このあたりのメリハリの感覚は、監督の意向だろう。普通、アップくらい入れるよね。藤村志保若尾文子の同僚の先生で、おそらく夫は自分と離縁して、彼女と添ってほしいと思っている雰囲気だけど、明言しない。てっきり、そう展開すると思ったけどね。このあたりはリアルに何か含みがあるのかも。

■それにしても映画的な展開の妙が盛り沢山で、姿美千子の嫁入り場面で妻の嫁入りの様子を思い出したり、若尾文子の教え子たちが成長して、入院する彼女を担架で運んだり、もういかにも泣かせる場面の設定が万全。いろいろとテーマ性を難しく展開するよりも、こうした場面の構図の置き方(広義での伏線)で、台詞で語らずとも「一見は百聞にしかず」という映画作法の真髄を見せつけるから凄い。おまけに、音楽は木下忠司が面々と叙情的な名スコアで、完全に松竹世界に没入する。

■戦後とはいえ、家制度がまだまだ実態を持っていた時代、自分は何もできない身体だから離縁してくれと懇願する、というより激しく主張するヒロイン像には、やはり増村映画のヒロイン像が反響しているところが、大映映画のユニークさで、若尾文子に対する生母、滝花久子の、あれはもう身体は死んでいて、心だけが生きているんだという残酷な台詞の鮮烈さも、まあありきたりのお涙頂戴映画では出てこない現実のハードさ。木下恵介、天才。実際のところ、彼女は長く生き抜いたし、その母もずっと寄り添っていたというから、木下恵介的には、膝を叩いたのではないか。ボクの描く女だから、きっと現実にそうだと思ったよ。と。

補足

■おもに泣かせる映画(お涙頂戴映画、あるいはヒューマンドラマ?)は、いわゆる「名台詞」的な気の利いた台詞で泣かせるパターン、役者が生々しく演じて泣くので、つられ泣き、もらい泣きするパターンが、ほとんどで、ある意味非常にステロタイプ化されている。

■本作を見ると、第三の泣かせる作劇のパターンが提示されていて、さすがにレベルが高いなあと感心する。台詞とか役者のあられもない生の演技ではなく、場面設定で劇的効果を惹起して、観客の感情を揺さぶるという手法だ。そして、本来はこちらが王道の作劇のはず。

■柳川の堀割を進む嫁入り舟の繰り返しが、その間に流れ去った時間の重みを感じさせる場面設定だったり、若尾文子の不自由な身体の移動ぶりの変化と対比だったり、まさに映像で見せる、映像で語る表現が駆使されている。すでに『野菊の如き君なりき』でも実証済みの手法だったわけだけど、ここでも見事に決まっている。後年の映画偏差値高い系の映画作家はこのあたりの手法を意識的に援用しているけど、そのルーツのひとつは木下惠介だった気がする。ただ、叙情的な音楽に頼り過ぎな気がするのは気になるけど。(でも木下忠司の60年代の映画音楽は傑作だと思う)


参考

木下恵介は、台詞も凄かったけど、映像で見せる作劇と演出も凄かったので、今後再評価が進むはず。一時期は忘れられた巨匠だったけど。
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