戦前青年の煩悶と人類補完計画のミッシングリンク?日蓮とエヴァンゲリオンが邂逅する!中島岳志著『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』

■戦前右翼の思想的成り立ち関係は、ながらくタブー視されて、なんとなく絶対悪みたいにみなされてきたけど、現実的にはそんな単純な話ではない。今振り返ってみても、かなり切実な問題意識が、その根底にあって、いまだに思想的に乗り越えられていない部分も多い。と直感する。

■そんな感触をもって、最近、右翼思想の源泉を探っているのだけど、戦前右翼といえば、中島岳志。といいながら、はじめて読んだけど。北村透谷、藤村操、宮沢賢治、田中智学、高山樗牛、三井甲之、倉田百三、渥美勝、大川周明朝日平吾、難波大助、小沼正、菱沼五郎、藤井斉、安藤輝三、磯部浅一、江川櫻堂、頭山満大川周明石原莞爾北一輝等々のオールスター。あるいは怪獣総進撃

■そもそも「超国家主義」て、国家を超えた大きなものに帰一する思想だろうと思っていたのだけど、もともとは、ウルトラ国家主義のことだったらしい。つまりモーレツな国家主義、のことだったらしい、そもそもは。それが、国家を超えた超越的なもの、全世界を統一する意志みたいなものに変貌していったという経緯らしい。個人的には、最初からそっちのことかと思っていた。ラジナルな個人主義、いきすぎた個人主義が、一気に超国家との融合を夢想し、希求しはじめる。それって、まさに「セカイ系」の発想では?

個人としての煩悶→一君万民の世界の希求→そのための国家改造→理想国家の確立→理想国家日本による世界統一→全人類の絶対的救済、という流れには、国内レベルですでに大きすぎる飛躍があって、雑すぎる空想的な思想だと思うけど、個人の心情に寄り添って再検討すると、そこにこんな切実さがあって、必ずしも頭のおかしい人ではなかったよね、ということが書かれている。中島岳志の感情移入の様が、まるで昔の東映実録映画の作家みたいだ。

■その際に、彼らの救済の拠り所となったのがなぜか日蓮で、田中智学は「日蓮主義」と言った。というか、使える思想が日蓮しかなかったのだろう。法然親鸞が使えるかといえば、やはりそぐわないだろうし、神道はそもそも教義がない。そのせいかどうか、日蓮宗は戦後はあまり人気がないよね。戦前の悪印象が残ったのか。日蓮正宗はあまり覇気がない(?)し、創価学会はカルト呼ばわり(実際そうかも?)で、正統から破門されるし。戦前の日本の歴史を大きく左右した思想なのにね。むしろ、いまは親鸞のほうが人気があるよね、本屋の棚を見ればわかる。

■個人としての輪郭を融解して、全体として完全な救済の中に溶け込むというイメージは、いわば阿弥陀如来による死後の成仏の言い換えではないか?と個人的には感じる。つまり、阿弥陀如来によって死後に約束されたはずの成仏=完全なる救済や理想郷(?)を、現世に求めたところに、悲劇の根源があったのではないかと、浄土系仏教の立場からは考えてしまうけど。そもそも日蓮はそれが許せなかったのだろうけど。

■改めて考えてみると、碇ゲンドウ人類補完計画石原莞爾の世界最終戦争論は親近感がありエヴァンゲリオン通奏低音となる碇ゲンドウの亡き妻ユイへの思慕と、石原莞爾の妻への異常な崇拝の念は、なんだか似ているのだ。とうか、明らかに、庵野秀明は意識しているのだろう。中島岳志はそこまで書かないけど。ゲンドウ自身が「神」になる(べき)という意志は、北一輝にも似ている。

■最後になったけど、一番感銘を受けたのは、渥美勝という男の章で、最後のこの部分は正直泣けました。業田良家の『自虐の詩』か!ホントにそうならいいよね!そうであってほしい。

結局、特筆すべきことは何も為し得なかった。しかし、自分は「無価値」ではない。取り替え不可能な「無代価」の存在である。すべての存在には、意味がある。世界を補完し合う意味がある。(117頁)

■ちなみに、著者の中島岳志は大阪外大(今は阪大に併合)の出身なので、舛田利雄とか、美容番長シルクの後輩だよ!結構、カオスな大学だね!

こんなのもありますね。

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