基本情報
怒りの孤島 ★★★
1958 スコープサイズ 90分?108?分 @神戸映画資料館
企画:市川久夫 原作&脚本:水木洋子 撮影:木塚誠一 照明:平田光治 美術:平川透徹 音楽:芥川也寸志 監督:久松静児
2024年の年末におこったちいさな奇跡
■ひょっとすると一生観られないかと思っていた幻の映画『怒りの孤島』が年末の押し詰まった時期にしれっと上映されました。水木洋子を熱心に研究されている荒木裕子氏、鷲谷花氏、木下千花氏のプレゼンと対談付きの非常に贅沢な上映会で、期待以上に満足しました。
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■特に舵子事件の経緯を時系列でまとめられた発表は参考になりました。GHQ肝いりで創設された労働省婦人少年局の高橋節子がルポして単行本(本庄しげ子名義の小説『人身売買 売られていく子供たち』)にまとめたことが大きかったようです。当然、そこにはGHQの意思が働いていた可能性があり、吉村昭が小説で憶測した民主化政策のキャンペーンという色彩が拭えません。宮本常一などは、そもそも山口出身なので、戦時中の孤児などを舵子に連れてくるからいけないので、その「異常性格」が問題の源泉であって、島の古来の習俗に罪なはないと、映画を攻撃したそうです。あんなもの、ちっとも瀬戸内海に見えないと、詮無いことまで論っていたそうです。
プリントの状態は意外と悪くない
■心配したプリントの状態は、意外にも良くて、良いとはいっても、真っ赤に褪色した古いプリントですよ。でも、コマ飛びもほぼないし、雨降りもほぼないし、ロールチェンジのあたりで、雨降りが強くなる現象もないし、カットの欠落もほぼなかった。早口のセリフは音が歪んで厳しいけど、それ以外は音声もほぼ判別できる範囲。
■その昔、東宝特撮オールナイトで『妖星ゴラス』とか『フランケンシュタイン対地底怪獣』などを観たときにような、真っ赤で雨降りだらけのうえよくコマが飛ぶようなプリントではなかったのが、驚き。あれは、人気作でたくさん上映されたためにプリントが傷んでいたわけで、つまるところ、今回のプリントは封切り当時に焼いたプリントだけど、あまり上映されずにそのまま死蔵されていた可能性が高い。
やはり脚本の改変は多かった
■一番の関心事は、水木洋子の書いた脚本がどの程度改変されたかという点。これは、想像した通り、かなり多かったし、大きかった。
■まず巻頭に、昭和26年云々のナレーションが入るが、脚本にはない。そして全体的に登場人物やセリフが相当に整理されている。脚本を読んで感じるのは、長台詞の多さで、これそのまま撮ったんでは持たないなあと感じる。そこを大幅にカットしている。特に生理的に刺激的なエグいセリフとか、島にやってきた役人たちの長台詞が中心。さらに、脚本にはあった佐藤英夫の役柄が消えている。これは織田政雄の学校の先生に集約したためと思われ、尺の都合からすれば賢明な判断だろう。そのため、織田政雄の一家は冒頭から登場しているけど、このあたりは全部監督が自分で書いたものらしい。
■スクリプターの中尾寿美子の証言で、監督がロケ中に毎日脚本を改定していたと述べていて、おそらくは予算やスケジュールの制約に加えて、役者のポテンシャルにも応じて台詞を整理していたのだろう。正直、こんな長台詞を子役にふるのか?と疑問に感じるところは多々ある脚本なのだ。二木てるみなんて、脚本ではもっと台詞があったけど、難しすぎるから大幅にカットしている。でも、映画だから映像で成り立つのだ。(そもそも当初は二木てるみではなく、違う子役が配役されていたが、何らかの理由で変更になった。)
■大詰めの舞台設定も大幅に改変されていて、脚本では祭りの日に鉄(鈴木和夫)が一人で船を漕ぎ出すのだが、映画では普通に連絡船に飛び乗って島を去る。突堤での織田政雄一家との別れが見せ場になり、これはもう王道中の王道で、ちゃんと盛り上がるし、その後、二木てるみが崖に駆け上って、船に別れを告げるラストは、素直に良い。そして最後の最後に児童憲章のテロップを出して、ダメ押しとなるが、もちろん脚本にはない。まあ、不要といえば不要だけど、途中のお役人たちの台詞を大幅に切ったので、罪滅ぼしに(?)ねじ込んだのだろうな。
映画としてはいい塩梅の泣かせる青春活劇
■監督のイメージとしては風光明媚な地方ロケによる叙情的な映画を狙っていたので、芥川也寸志の音楽もその線でいい調子だし、雄大なロケ撮影は、やはり強力。シネスコ撮影でどっしり構図を構えた海上ロケは有無を言わせぬ臨場感がある。16㍉とはいえ、映画館で観るとアナモフィックのシネスコ撮影の味がわかる。
■なにしろ、日本でカラーワイド撮影が定着したのが1957年で、邦画6社が同年中にカラーワイド映画の第一弾を打ちだしている。日映はそこに第七の系列を立ち上げようとして、あえて第一弾をカラーワイドとして企画した。「日映事件」のいざこざで、当初の規模感からは後退したものの、カラーワイドは譲らなかった。実際の撮影は1957年に行われていて、配給の都合で翌年公開となったけど、正直、当時の独立プロが掲げる映像スペックではない。完全にオーバースペックである。
■作劇的にはほとんど脱出ものの活劇で、脚本を読んでも感じたところだけど、脚本を刈り込んだせい(おかげ)で、その構造が露骨になった。水木洋子らしい、みっちりと台詞で描きこむ部分は簡略化され、脚本が持っていた活劇としての骨組みが浮き上がってきたのだ。
■そのことは久松監督のなかでも確信があった部分と思われ、少年たちを集めて動かすと、そのままで十分にアクション映画になってしまうことに気付いたのだろう。実際、少年たちの機敏な動き、その華奢な身体の痛ましさ、そのものが映画的な魅力になっている。手塚茂夫は演技よりも見栄え優先で、白っぽくて、無垢な状態で、演技的にも未熟だけど、それに対する鈴木和夫が妙に上手いので感心する。後年、東宝に移って、脇役専門として妙な個性を発揮する人だけど、たまにゲスト的に大きな役をやっていて、妙に演技が技巧的にもセンス的にも上手い人なので驚いたことがある。もともと俳優座系統らしいけど、デビュー作からこんなに上手いんだね。手塚茂夫たちと出逢って、島で自分を押し殺して舵子として生きる鈴木和夫の心が変化して、島を出る決心を固めるわけで、立派な主役なのだし、実際、その度量がある。死んだ舵子仲間の死骸を背負って逃げようと試みる場面なども、脚本で文字にするよりも、ずっっとリアルに哀しみが心に迫るから、それはやはり映像の力だし、若い役者の身体の柔軟さや、体躯の華奢さや、死骸にのしかかる重力の自然な反映のありさまなどが、素直に被写体を写し出すだけで、溢れ出すのだ。
■脚本では、母恋の念から島を出る展開だけど、そこは大きく改変していて、もっと可能性に開かれた描き方になっている。道具立て含めてステロタイプにも見えてしまうけど、素直になんだか祝福したい気になるから、映画としては成功していると思う。ラストの児童憲章も、『世界大戦争』のさいごの身も蓋もないテロップに慣れてしまっている身には、それほど違和感がないのだった(特撮オタクの哀しい性)。
雨降りに傘を差し掛けてくれる人は、天使に違いない
■実際、鈴木和夫と二木てるみの関係はそんなふうに描かれ、台詞を大幅にカットしたことで、映像の喚起するイメージがかえって増幅しているところがある。そこは映画監督としての、台詞に頼りたくないという見極めがあったのだろう(実際は、予算とスケジュールの中でいかに撮り切るかが大きかったろうけど)。だから、二木てるみはリアルな島の少女ではなく、舵子たちが願いながら持てなかった「無垢で純真な子ども時代」を象徴している。友だちだった手塚茂夫の死と、二木てるみという天使に触発されたから、鈴木和夫は島を出たいと願うようになったのだ。そうそう、これは立派な青春映画なのだった。
■おそらくオリジナルネガが発見されることは難しいだろうけど、この程度のプリントが残っているなら、デジタル化して多少は補修することもできそうな気がする。傷は消せるし、音声もかなり綺麗にできるだろう。いっそのこと、モノクロに仕立て直してもいいのではないか。
■なにしろ水木洋子の脚本を大幅に改変してしまったので、水木洋子の作品としての評価は難しいのだけど、一本の映画として虚心坦懐に観れば、意外にもできの悪い映画ではないし、テーマも明快だし、なにしろ、青春活劇としての骨格はしっかりしているし、鈴木和夫が好演するから、十分に面白い映画なのだった。