組織は必ず腐敗する!渡辺あやの義憤が炸裂する『エルピス-希望、あるいは災い-』と『今ここにある危機とぼくの好感度について』を一気見!

『エルピス』の本命は飯塚事件だった

■HDDに残っていた『エルピス』をこの機会に一気見しました。たまたま飯塚事件を扱ったドキュメンタリーを観たところ、あれ?これ『エルピス』そっくりだねと感じたためです。もちろん、飯塚事件が下敷きになっていることは知っていたけど、ドラマのクレジットでも足利事件の方が大きく扱われていたので、足利事件の要素が多いものと思っていたけど、むしろ飯塚事件の方が直接参照されていることを認識しました。

飯塚事件は福岡県飯塚市で起こった幼女殺人事件で、ほぼ冤罪に間違いない印象ですが、飯塚市麻生太郎の地元で、久間死刑囚の死刑執行時の総理であったことから発想(妄想?)を飛躍させて、ドラマの真犯人と麻生太郎そっくりの副総理の間に関係があり、政治的な圧力で犯人をでっちあげたという設定が導入されたものでしょう。それでは、以下は文体を変えて、『今ここにある危機とぼくの好感度について』と比較しながら『エルピス』を中心として、渡辺あやの目論見についてガンガン追求してみましょう。

渡辺あやの世界観:組織は腐っている

■個人的に、『ワンダーウォール』『今ここにある危機とぼくの好感度について』『エルピス』を渡辺あや「義憤三部作」と呼んでいるのだけど、組織の腐敗に対する激しい嫌悪感と義憤が一貫したテーマとなっている。「組織は腐っている」というのが渡辺あやの世界認識のベースにある。『今ここにある危機とぼくの好感度について』の最終回でも三芳総長(松重豊)が「この組織は腐っている」と身も蓋もなく明言してしまう。

三芳総長「我々は組織として腐敗しきっています。不都合な事実を隠蔽し、虚偽でその場をしのぎ、それを黙認し合う。何より深刻なのは、そんなことを繰り返すうちに我々はお互いを信じ合うことも敬い合うこともできなくなっていることです」

ああ、言っちゃったよ。。。

■そして、渡辺あやのこの組織嫌悪の姿勢になんだか見覚えがあるなと感じたのは、佐藤純弥の映画に似ているから。渡辺あやは組織に属さない地方都市在住の主婦脚本家だけど、佐藤純弥はれっきとした東映の社員で組合員でもあったのに、組織なんてろくなことしない!必ず個人を潰そうとする!という強烈な(妄想に近い)信念で初期の尖った映画を作っていた。

渡辺あやの世界観:世界は(想像以上に)複雑である

■そして「世界は想像を超えて複雑である」というもうひとつのテーマが『今ここにある危機とぼくの好感度について』と『エルピス』で執拗に繰り返される。『今ここにある危機とぼくの好感度について』のラストで犬山正教授が繰り返すように、世界はあなたやわたしの思うよりももっと複雑にできているのだ。単純なステロタイプな善悪判断で捉えられるものではないし、どこに危険が潜んでいるかわかったものではない危険なジャングルなのだ。『今ここにある危機とぼくの好感度について』でも『エルピス』でも能天気に単純な若い男、無垢な男が、そのことを知らされてゆく、学んでいく構成になっている。一方で、女はリアルにそのことを認識している。木嶋みのりも浅川恵那も、世慣れたリアリストであると同時に組織に対する反逆者である。

■世界の複雑さから目をそらしたり、単純化に逃避することなく、正しく向き合うこと。原発報道、コロナ禍中の五輪開催、安倍政権下の報道現場でそれができなかったストレスから、浅川恵那は摂食障害になったのだ。間違ったことを飲み込み続けことを身体が、本能が拒否している。善悪は固定された役割ではなく、そのバランスと相互作用によって、あるときには善に、あるときは悪として顕現するのだ。善玉菌、悪玉菌などという単純極まりない非科学的なレッテル貼りには個人的にふざけるなよと思っていたところだけど、渡辺あやもちゃんと正しく反応するのだ。そんなこと言うやつはろくなヤツじゃないと。

渡辺あやの世界観:問題には正しい名を与えよ(子曰く「必ずや名を正さんか」)

■これは『今ここにある危機とぼくの好感度について』の第1回で木嶋みのりが言った言葉を受けて、最終回で三芳総長が引用する孔子の教え。

■木嶋みのりはなんと言ったのか。第1話の感動的な長台詞の一節にこんな言葉がある。

「たとえば病気が重くて死にかけてるんならまずそれを認めるしかないじゃん。どんなに嫌でも病名を知らなきゃ治療だって始まらないじゃん。」

これに対して三芳総長は、孔子の言葉を独自に解釈して、

「問題には正しい名をつけなければ、それを克服することはできない」

そう言ったのだ。病気にはまず病名をつけないと治療は始まらない。三芳総長は、意外にも木嶋みのりの発言のこの部分にインスピレーションを受けていたのだ。いまここにある腐った組織の危機について、直視してありのままを認識すること。意訳すれば科学的にアプローチすること。

■ほぼ同じセリフを『エルピス』の最終回のクライマックス、鈴木亮平との10分間のタイマン勝負(圧巻!)で長澤まさみが語っているから、浅川恵那は木嶋みのりの発展でもあるし、組織に敗北した木嶋みのりのリベンジでもあることは明白なのだ。

孔子は弟子の問いに答えて「必ずや名を正さんか」と言った。木嶋みのりのことばから三芳総長はこの孔子のことばを連想した。組織の問題の核心を隠蔽するために、「研究不正」を「ポスドクのミス」などという言葉に言い換えて問題の所在を隠そうとしてきたが、それは正しい言葉で呼ばれなければ正しく捉えることすらできず、改善も解決もできはしないのだ。組織の再生はそこからスタートするはずなのに。

男と女の間には…

■以上のように『エルピス』(『今ここにある危機とぼくの好感度について』もね)を一気に観ると、全体構成のツイストの効かせ方がよくわかって初見よりも面白く観ることができた。浅川恵那は(もちろん作者の意図だけど)結構ぶれまくっていて、再審が棄却されるともうだめだと諦めるし、その後ニュース8に復帰したもののやっぱり不完全燃焼で適応障害が再発するし破壊衝動に襲われる。その破壊衝動を村井(岡部たかし)が代行するというのが脚本構成の妙で、拓朗(眞栄田郷敦)の独自調査が大成功したことを知って、やっと再び重い腰を上げることになる。

■シリーズ後半は恵那がいったん戦線離脱するので、拓朗がジャーナリストとして目覚め、猛然と成長する姿が描かれる。そのなかで、新たな真実や決定的な物証とDNA鑑定が得られる。さらに、村井がバラエティ班に左遷される原因となった大門副総理に関する決定的なスキャンダルのネタを披露する。でもそれが潰された(証人が謀殺された)ことから、スタジオ殴り込みの暴挙に出ることになるんだけど。その後、最終回でやっと恵那が拓朗に追いついて合流し、最終的な斎藤(鈴木亮平)との政治的駆け引きに成功する。

■このように、恵那と拓朗は交互に役割を入れ替わりながら、正しいことをしたいという一点で結ばれて冤罪事件に関わり続ける。この二人は恋愛関係にはならず、姉と弟のような関係なのだが、渡辺あやはこうした男女関係を象徴的に捉えると同時に、理想的な男女関係と考えているかもしれない。性愛関係ではなく理想を共有しつつ伴走し、互いに成長してゆく男女。『今ここにある危機とぼくの好感度について』では、複雑な世界のシンボルとして最終的に「愛」を謳っていたけれど、「愛」だけじゃない関係、裏と表でも、善と悪でもなく、男と女でもなく、二項対立の相互作用のなかにあり、相互作用そのものとして存在する、相互依存的な存在としての男女関係を描いたのではないか。それは恵那と斎藤の性愛関係や政治的関係と対比される。性愛は政治的事象なのだ。

『エルピス』の演出の弱点

■『エルピス』は、長澤まさみができる子なのは映画デビュー作(金子修介の『クロスファイア』!)から観てるし、そのキャリアからすれば当然だけど、眞栄田郷敦の振幅の広さは絶品だったし、岡部たかしという飛び道具の使い方も意表を突いて鮮やかだった。配役の大勝利。岡部たかしはいまNHK『ブギウギ』で、よりによってアホのおっちゃん役だけどね。主役三人(岡部除く)が美男美女なので、脇役に実在感のある庶民派が揃っていて、六角精児なんて昔なら鈴木瑞穂が演じる人権派弁護士役を好演する。これは非常にリアルで良かった。

■ただ『エルピス』については、大根仁ほかによる映画的な演出のゴージャスさの反面で、やたらと登場人物を毎回泣かせる演出のウェットさが明確な欠点となっているのは、指摘しておきたい。あんなに毎回証言者やメインキャストが泣きじゃくる必要はなくて、もっとクールにいけばいいのだ。泣くにしたって、心で泣くという芝居もあるし、登場人物は淡々としているけど、観客は泣かされてしまうという高度な手法もあるのだから。この点は、ホントに勿体ないので記録に残しておく。だって、全体的に異様に充実してるからこそ、そんな欠点が気になるのだ。

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