黒部の太陽 ★★★★

【最終更新 2021/6/2】

黒部の太陽
1968 スコープサイズ195分
BS日テレ
原作■木本正次 脚本■井手雅人熊井啓
撮影■金宇満司 照明■平田光治
美術■平川透徹山崎正夫小林正義 音楽■黛敏郎
監督■熊井啓

■最近になってやっと公開されたノーカット完全版をやっと観ることができた。これまでは特別編といった1時間あまりカットされた短縮版しか観られなかったのだ。そして、この短縮版はドラマ上非常に重要な場面がごっそりカットされた改悪版であり、短縮版を見ただけではこの映画を完全に誤解してしまう結果になるという困った状態だった。裕次郎の遺言でこの映画はスクリーンで観てほしいという趣旨で永らく封印されていた完全版だが、正直これは逆効果だったと思う。テレビでもいいから完全版を見せないと、この映画の価値が忘れ去られてしまうことになるからだ。

■正直、短縮版では大味な大作という印象しかなかったのだが、完全版では三船敏郎のドラマと石原裕次郎のドラマが濃厚に絡まって、しかも敗戦後の日本の闇を見つめ続けた熊井啓の粘着質でケレンミのある演出が堪能できる傑作という印象に百八十度逆転する。黒四ダムの大建設工事をテーマとしながら、そのために欠かせない資材搬入用のトンネル掘削という異様に地味なお話で、大セットを組んだといってもほとんど真っ暗のトンネルの中で細部は闇に沈んでよく見えないという非常に倒錯的な企画および映像設計で、何か変な執念に取り付かれたような異色作なのだが、そのテーマは自然と人間の対立というもので、ここを三船敏郎のエピソードが担っている。トンネル工事上の大障害、破砕帯を突破できるかという自然への挑戦と娘の白血病克服という挑戦が対比的に描かれ、人間は自然の(いかえれば神の)試練に打克つことができるかというテーマが置かれる。その結果は、破砕帯は抜けるがそれは湧水が自然に減少したおかげという行幸であったし、白血病は治癒せず娘を喪う事になり、トンネル工事は完成したものの、結局自然を克服することはできなかったという苦い結末を迎えるのだ。それが貫通式での三船敏郎感動的に不器用な挨拶ぶりに表現されるし、ラストの三船敏郎の感慨にも表されている。
(補足)実際、品田雄吉のインタビューによれば、

「山の水がなくなったから、トンネルが抜けた」だけの話だ、と彼はいう。
(出典:「アートシアター」74号 「熊井啓、自己を語る」)

とのことであり、人智を超えた自然のなりゆきで、たまたま運良く成った成果であって、人間が自然をねじ伏せたわけではないというのは、明確な演出意図だったわけだ。

■一方、石原裕次郎のエピソードは父親の辰巳柳太郎との確執で、黒部第三ダム建設の高熱隋道の掘削で戦時中に残酷な強制労働を強いた過去を持つ父親を憎む息子が父親を理解し、乗り越えるまでが描かれる。ここは辰巳柳太郎が圧倒的な名人芸を見せるが、テーマは世代対立であり、明確に戦争世代への批判が強く打ち出されている。確かシナリオでは高熱隋道での工事で朝鮮人人夫を責め上げたエピソードがあったと思うが、完成版でははっきりと描かれていなかったようだ。

■それにしても、三船敏郎柳永二郎の風呂場での議論とか、その後の滝沢修柳永二郎への懇願とか、熱いシーンが短縮版では全てカットされていたことは驚きだった。熊井啓もさぞや悔しかったことだろう。

■さらに下世話なことを言えば、本作は非常に性的な寓話であって、トンネルを抜くという行為が露骨に性的だし、裕次郎がドリルを構える構図も恥ずかしいほどに露骨だ。その際に最大の課題になるのが際限なく湧き出す水にどう対処するかというものだし、完全に男の本能に基づいたお話である。一方で、物語のテーマの核心を語る場面が、三船敏郎柳永二郎が唐突に裸で二人きりというシチュエーションであったりして、古い土木業界の衆道的な気風を匂わせたりして、危ない危ない。このあたりは熊井啓のことだから、確信犯に違いないが、よくもぬけぬけとやり通したものだ。熊井啓のケレンに満ちた演出力にも舌を巻いたが、その仄めかしの技にも感服した。

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