「マンハッタン計画」戦後秘話だった?『フランケンシュタイン対地底怪獣』

基本情報

フランケンシュタイン対地底怪獣 ★★★
1965 スコープサイズ 90分 @DVD
脚本:馬淵薫 撮影:小泉一 照明:小島正七 美術:北猛夫 音楽:伊福部昭 特技監督円谷英二 監督:本多猪四郎

感想

■改めて観ると、『サンダ対ガイラ』て、意外と洗練された映画だったのだと感じた。本多監督のリアリズム演出とメロドラマ演出が絶妙なブレンドを構成していた。それに比べると本作はまだ荒削りな感じがする。なにしろ水野久美だって、あまりオシャレじゃないのだ(まあ、その方がリアルだけど)。というか『サンダ対ガイラ』が京都のええし(元公家とか?)のお嬢さん(妄想)で、京都の研究所勤務なので、衣装持ちだったのだろう。(たぶん京都の上の方に実家があるに違いない!)

■本作はけっこういろんなことが気になってくる映画なんだけど、いくつか論点を絞って、備忘的に記録しておきたい。今後明らかになる事項も出てくるだろうし。

そもそも誰のアイディアなのか

■この当時の東宝特撮はとにかく輸出が堅調だったはずなので、アメリカの配給会社とか製作会社と意見交換が盛んで、本作は日米合作なので原案がアメリカ側から提示されている。『フランケンシュタインジャイアント・デビルフィッシュ』というプロットで、ジェリー・ソールが書いたもの。他にもルーベン・バーコヴィッチも原案に関与したらしい。

■ジェリー・ソールはSF作家で、『トワイライトゾーン』(チャールズ・ボーモントの代筆として何本か書いたらしい)、『アウターリミッツ』の脚本も書いているし、ニック・アダムス主演の『襲い狂う呪い』の脚本も書いているので、それなりに業界の有名人。
maricozy.hatenablog.jp

■この原案を受けて、木村武(馬渕薫、馬淵薫。以下、馬淵薫)が『フランケンシュタインゴジラ』の検討稿を書いているが、アメリカ側から新怪獣がいいよおと言われて、バラゴンが登場した。フランケンシュタインの怪物とマンハッタン計画の後日談が日本で合体するというアイディアは、なかなか日本側で思いつくものではあるまい。

何種類のプリントがあるのか

■この映画のラストはいろんなバージョンが混在していて、むかしから論争をよんでいたが、近年はかなり確認作業がすすみ、それでもまだ謎が残っている。おおよそ以下の通りだ。

  • タコ版(海外輸出用) →海外輸出用に完成したが、なぜか米側から拒絶された。でも現在の東宝公式版。円谷英二の演出としても一番力がこもっていて、できは良い。
  • タコなし版(海外公開版) →なぜかタコ版が忌避されたため、タコなし版(国内封切り版)に若干の撮り足し(実際は没カットの復活と思われる)を行った。
  • タコなし版(国内封切り版)
    • 陥没版 →バラゴンの死骸を足元においたまま陥没する。
    • 持ち上げ陥没版 →バラゴンを持ち上げたまま陥没する。

■「持ち上げ陥没版」はいまだにプリントの所在が確認されていないけど、確かに観たとの証言があって、国内封切り版も2パターン完成された可能性がある。若干、オカルト案件に近い気がするけど。円谷英二がメインスタッフ用に書いた簡易なイメージスケッチでは、バラゴンを持ち上げたまま、舞台がせり下がる機構が書かれていて、演出プランとしては確かに存在したようだ。実際に2パターン撮影されて、いったんどちらかのバージョンを映画館に流したが、円谷英二が気に入らず、後になってカットを差し替えたという可能性も否定はできない。『モスラ』でも、合成カットを封切り後に差し替えたという話があるので、東京封切りでは「陥没版」、地方公開では「持ち上げ陥没版」といった、ケースもありうる。

■個人的にも、フランケンシュタインが死んだバラゴンを持ち上げたまま陥没するバージョンをオールナイト上映で観たような気もするけど、なにしろオールナイト上映は半分寝ながら意識朦朧で観ているので、確証はない。夢かもしれない。

■もともとの原案でタコが登場するらしいのに、最終的に「タコ版」が却下されたのは、あまりに木に竹を接ぐような投げやりな展開に唖然としたからかもしれない。タコを出せとはいったけど、なんで急に山からタコが出てくるの?ジャップ、アメリカ人舐めてますか?(金返せ!)といったような。あるいは、タコの作り物が気に入らなかった?

■一方で円谷英二は『ゴジラ』の前から大ダコが登場する怪獣映画を企画していて、タコにはこだわりがあるので、かなり演出にも力が入っているし、ラストシーンあたりの撮影も編集も見事なので、これが本来のバージョンという意向だったのではないか。でもお話としては無理筋なので、社内からもあれは日本じゃ流さないよね?とか、批評家(および映画館主)にもバカにされそうなので国内版はタコなしで「陥没版」を編集したけど、いまいちカットの繋がりが悪い(じっさいイマイチな出来)ので、国内版のほんとの最終版として「持ち上げ陥没版」を編集し直した。といった経緯が想像されるけど、どうかな。

■でも円谷英二としてはやはり「タコ版」に思い入れが強いので、今後のテレビ放映とかはこれを復活させてくれと、なんとなく周囲に言いおいて(あるいは社内の書類にメモ書いて)亡くなったので、テレビ放映の際にこのバージョンが国内初公開されたとか。

■まだ撮影日誌が公開されていないのだけど、実際のところ、8月8日公開なのに7月末まで撮影されていたとの情報もあり、撮影スケジュールが相当タイトだった可能性がある。もともと国内版はタコなしの想定で完成しためけど、「タコ版」は海外公開用でさらに追加撮影を進めるという感じだったかもしれない。そして、円谷英二的には、時間に余裕があった「タコ版」が一番完成度が高いと認識して、これを後世に残そうとした?

【追記】
■以下の記事によれば、米国側(サパースタイン)がタコ版を気に入らず却下、国内版を採用したうえで、90分に足りない部分を撮り足したとのこと。実際は、割愛カットの復元だと思われるけど、やはり問題はタコの質感(?)だったのだ。

【追記】
■以下の書籍で撮影日誌などの資料をもとに経緯が確認されています。やはり国内版はタコ版の撮影が間に合わないので仮編集で仕上げていたらしい(だからいまいち不出来だった)。日本で封切り後にタコを撮影して、やっと本来の形の映画になった。でも、米国側はタコ版を却下したのだ。で、『怪獣大戦争』の撮影後の1965年末に、団地の特撮シーンの追加撮影を行っている。しかも、米国側から製作予算は出ていないらしい。

本当に一本刀土俵入だったのか?

■本作の作劇は駒形茂兵衛、お蔦で有名な『一本刀土俵入』が下敷きになっているというのは、知る人ぞ知る事実(?)だけど、実際のところ馬淵薫は意識していなかった可能性が高い。

■そもそも『フランケンシュタインゴジラ』検討稿では、駒形茂兵衛の土俵入りの段取りが意識されていない。本作でもやはり弱くて、フランケンシュタイン勝ち鬨をあげるけど、水野久美との結びつきが強調されない。「持ち上げ陥没版」が実在するなら、それがいちばん作劇的には理想的な形ではないかと思われ、観客のそうした潜在的な意識がこのバージョンを(記憶の中で)幻視させたのかもしれない。これありそうな気がする。人は目で見るのではなく、脳で見るものだから。

なぜフランケンは高島忠夫を救うのか?

■この頃の特撮映画のドラマツルギーは今と違っていて、人間ドラマはクライマックスの怪獣プロレスを導き出して、盛り上げるために構築されているので、最終的には人間たちはフェードアウトし、怪獣たちの闘争の結末がそのまま映画の終了となる。それで良い、無駄なものは要らない。という考え方で構成されていた。いまなら、最終的に人間ドラマの決着をつけたり、テーマを念押ししないと、素人からもバカにされそうな気がするのだけど、当時はまだそんな考えかたはなかった。怪獣のドラマが終われば、映画は終わるもの。それ以上何が要る?

■だから、本作も科学者三人組のドラマは、かなり投げやりに放置されている。馬淵薫はとくに上記の哲学が強かったらしい。『フランケンシュタインゴジラ』(検討稿)は富士山が急に噴火して怪獣たちは溶岩にのまれたり川に流されて終わってしまうので、完全に投げっぱなしだ。

■気になるのは、第三幕で高島忠夫フランケンシュタインに救出されるくだりで、普通に考えると、これ水野久美の役どころ。実際『サンダ対ガイラ』ではそうリメイクされている。そうしないと、上述の一本刀の構成が完成しないし、実際していない。

■これ改めて考えてみると、三人科学者の人間像を完成させようとした経緯が透けて見える。高島忠夫フランケンシュタインは死んでもかまなわいから、研究優先で割り切って考えようとする強硬派。それがフランケンシュタインに救われることで、自分の考えを改める、という構想があったのではないか。不死の怪物フランケンシュタインも、やはり人間のこころを持っている。そのように認識を改めるというドラマが仕組まれようとしていたのではないか。でも実際のラストシーンでは、そこがやはりスルーされる。

マンハッタン計画に参加したことの贖罪の思いから原爆症の研究に従事し、最初はフランケンシュタインの保護を主張していたニック・アダムス(ボーエン博士)が最終的に「しょせん彼は怪物だ」と酷薄に吐き捨てる、米国人の偽善とか限界に対して、高島忠夫がアンチテーゼとして対置されていたのではないか。本来なら、そう言い捨てるボーエン博士に、意外の思いとともにハッとして表情を変えるとか、さっさと引き返すボーエン博士に対して、高島忠夫水野久美だけは、いつまでもその場を離れられない、といった演出が必要だった気がする。

■つまり、女医の水野久美は団地での遭遇から一貫して怪物に母性的な(?)こころを寄せ続けるけど、ニック・アダムスははじめは人道的な理想論を口にするのに、最終的には人間ではなく怪物だと断定するように現実主義的な立場に変化する*1。一方で高島忠夫は研究材料としか見ていなかったフランケンシュタインが、やはり人間に近い理性やこころを持つ存在だと認識を改めて、水野久美の立場に接近することになる。そうした男性科学者二人の心の変遷がドラマとして仕組まれていて、日本人二人は原爆の洗礼を受けたフランケンシュタイン(白人)を人として感知するようになるが、米国人科学者は結局共通理解には至らず、あれは人ではないと線を引く。そこには差別意識が働いているかもしれない。

■とも考えられるし、「しょせん彼は怪物だ」のセリフは「しょせん彼は”怪物”だ」とカッコ書きが付けば、世の中の人が彼を「怪物」と呼んで排斥して、当然ながら人としては扱われないだろうから、この世界に彼の居場所はそもそもなかったのだ、との苦い諦念(「怪物」の実存問題!)が滲み出ることになる。こっちのほうが、まあ一般的な解釈だろうけど。

■ただ、そもそも馬淵薫は最終的にそんな風にご丁寧に回収するのはダサいね!と思っていただろうし、人間にできることはここまで、此処から先は怪獣の領域なので、安易に人間がどうこうできるものでもないし、大自然の生態系がその仕組の中で消化するしかないのだし、人間なんてそんなに簡単に変われるものじゃないよ。というのが世界認識だし人生観だったろう。なかなか真似できないし、安易に真似すると脚本家としてはバカにされかねない。でも、当時のハリウッド映画ではだいたいそんな終わり方だったので、当時の世界共通モードではあったのだ。


*1:実は本国からなにか示唆されたのではないか?なにしろマンハッタン計画の関係者なので。

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