参考
■みんなコミンテルンのせいなの?それを「コミンテルン陰謀史観」といいます。そもそもコミンテルンは1943年に消滅してます。でも、陰謀史観は廃れません。いわゆる陰謀史観は、世間知らずの人々が、現実世界を単純化して安心したいという願望から生じます。科学的には認知バイアスの一種として説明可能だと思います。複雑なことを考えるのは非常にエネルギーがいるので、脳はそこを省力化したいわけです。現実の世の中はそんなに単純には動いていません。あらゆる要素の複雑な相互作用の結果が、歴史として表現されるからです。
■本書は敗戦直後の(たった)2年間を集中的に語り明かした奇書(?)で、奇書の所以は①無邪気な天皇崇拝と②「コミンテルン陰謀史観」と③胡散臭い「ヴェノナ文書」によります。でも、この筆者は実は共産主義大好き人間じゃないかと思いますね。極右勢力が喜んで買ってくれないと本が売れないので、商売上の戦略として上記のようなポーズを装って、唐突に天皇崇拝やあいつもこいつもコミンテルンのスパイ!とかぶち込むけど、ホントは共産主義者の歴史大好きだし、かなりシンパシーを抱いているのではと推量します。それは、読んでいると自然と行間に滲んでますよね。
■ただ、聖徳太子の十七条憲法とか引かれると、仏教徒としてはちょっとほだされてしまいます。日本人は昔から合議を旨としていて、古来より話し合いで決める文化なのだ、と言われるとね。「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。」わたしもあなたも、一般庶民も為政者もみんな凡夫なので、誰かの言っていることが絶対正義などということはありえない。仏ならぬ人間にできることには限界がある。思想的あるいは政治的指導者の言葉が絶対などということはありえない。大昔の聖徳太子ですら、仏教の教えから、そんなことは分かっていたのに、共産主義社会の専制政治はなんなのか?それはまさにそのとおりなのでね。ただ、敗戦直後の時期には、まだスターリンの恐怖政治の実態が広く知られていなかった。今の価値観で過去を裁いては語弊が生じる。そこには一定の保留、条件が必要なはずです。扇動じゃなくて、客観的、科学的に考えようとするならね。
■という前提はあるものの、困ったことに本書は実に面白い。500ページの大著を一気に読んでしまう。筆者の筆力は間違いなく、確かなものだ。当時の資料を引きながら、1947年の2.1ゼネストに引き続いて起こったかもしれない、現実に起こりそうだった共産主義革命の幻想を生々しく描き出す。そこには恐怖感や嫌悪感ではなく、むしろワクワクする気持ちを抑えられないといった筆者の胸の内が行間から垣間見えるから皮肉だし、そこが読んでいて非常に面白い。そこに関わった政治家や左翼活動家の生の声を交錯させるだけで、当時の空気がいきいきと伝わってくる。
■ちなみに、本書の前が『コミンテルンの謀略と日本の敗戦 』で、続編が『朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作 』なんだけど、図書館で予約してしまいましたよ。決しておすすめはしませんが、好事家の方はどうぞ。責任は持ちかねます。