河内屋与兵衛はサイコパスなのか?夏休み文楽特別公演『女殺油地獄』

文楽劇場に出かけるのも何年ぶりだろう。酷暑の夕涼みにはもってこいの演目だし、浄瑠璃の詞章の予習も万全(ただし現代語訳)、たっぷり堪能してきましたよ。さすがに冷房がガンガン効いていて、寒くなってきたけど。
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■「徳庵堤の段」「河内屋内の段」「豊島屋油店の段」だけなので、完全な通し公演ではない。近松の原作では、その後を描く「同逮夜の段」があり、与兵衛の人間性を深く理解するには、必要な段なんだけどね。

■「河内屋内の段」の奥では、口上の黒子氏が太夫の名前を失念して台詞に詰まるという前代未聞(?)の珍事が出来して、どうするのかとみんなでヒヤヒヤしていると、豊竹靖太夫がじぶんでプロンプターしてました。

■当たり前だけど、3つの段を通しで観ると、与兵衛の人間像がある程度浮かび上がるようになっていて、お話が進むにつれ、舞台は文字通り暗くなってゆく。与兵衛の心理をなぞっているわけ。

■「徳庵堤の段」では大勢の登場人物が行き交う明るい野崎詣りの場面で、武士の叔父にほんとに首を撥ねられると思って、ビクビクしている与兵衛の小心な性根が垣間見える。その後、実家の河内屋では父母を踏みつけるし、天秤棒で打擲するし、DVの嵐で、相当な内弁慶であることが伺える。反撃を受けない家内では、自分の腕力を思う様行使する卑怯者だ。しかも兄の太兵衛は、あんな出来損ないを置いていては、きっと大きな間違いを仕出かして身代を持ち崩すに違いないから早く勘当すべきだと進言する。与兵衛の危険性をちゃんと見切っている兄は冷静な常識人なのだ。

■そして豊島屋では、父母故に一定の歯止めがかかっていた与兵衛の暴力が、自分より力弱い他人、しかも女には、リミッターを外して心の内の嗜虐性を奔流のように迸らせる。殺意はどこで芽生えたのかは、解釈が分かれるところだが、最初はなかったはず。そこまでの考え、計画性はない男なのだ。成り行きで、自分より弱いものだから、奪えばいいと思い至ったのだ。しかも、与兵衛がサイコパスではないことは、父母の嘆きを蚊に咬まれながら聞いていて涙が出たと述べるところから伺える。普通の人なら泣くところだよねということくらいは理解できている(泣かんけど)のだ。でも、その父母の情に応えるために、金が必要なのだと強盗を働こうとする論理回路に、手前勝手なエゴイズムと病的な(?)短慮があるのだ。

■確か歌舞伎(と五社英雄の映画)では観ているけど、文楽では初めて観たはず。クライマックスの殺しの場が、人形ならではの派手な振り付けだし、奥行きと舞台の幅を生かした演出で、さすがに見栄えがするし見応えがある。二人が油に滑るおなじみのアクションなんて、ほとんどスケート場ですってんころりんみたいなコメディになっている。だから、ホントは与兵衛が強盗殺人をおかして夜の街に逃げ去る極悪な場面が、完全にヒーローと同じように描かれることになる。しかも、「同逮夜の段」がないから、逃げおおしたようにも見えてくるから、ピカレスクロマンか?と見紛う。違うんだけどね。ほんとは逃げたあとも、放蕩を重ねて、お吉の葬儀に自分が疑われないようにわざわざ姿をあらわして惚けるという悪質さ。

■ちなみに、与兵衛とお吉と太兵衛(あるいは七左衛門も?)の前日譚を誰か書かないのかな。絶対、曰く因縁が過去にあっただろうと思うんだけど。七左衛門は単に嫉妬深くて妬いているのではなく、お吉には何らかの前科があるから、また悪い癖が出よったか?と疑ったのではないか。きっとそんな前日譚が、近松じいさんの脳裏には裏設定としてあった気がするんだよね。

■お吉は、吉田一輔、与兵衛は吉田玉助。河内屋内の段の口は亘太夫と團吾、奥は靖太夫と燕三。豊島屋油店の段の切は、若太夫と清介(おなじみ、見た目のインパクト大!)。むかし文楽劇場に通っていた頃は、玉男と簑助だったからなあ。。。

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