■戦争のない平和な時代が長く続いた平安時代を舞台にすることで、今の時代(戦後の歴史)を重ね合わせることになり、そこに大きなテーマ設定が可能となりました。制作陣は当初から、戦のない時代なので、男たちは政争、権力闘争に明け暮れているというふうに捉えて、実際その有り様を藤原氏を中心に紡ぎ出します。それは、ある意味血の流れない戦争です。
■一方、戦のない平安な時代ゆえに、女たちがその持てる力を発揮し、あるものは文藝に秀でた才能を見せるし、暗愚と思われた少女は父道長をも凌駕して国母に上り詰めて影から政治を牛耳るに至る。戦争がないゆえにそれができた時代。戦争がなければ、そんなことができるのだという歴史上の実例。
■まひろと道長が、共通の親友で遊芸の民(被差別の民)である直秀*1の遺骸を葬った原体験が、ドラマの前半の核で、ドラマの後半にまで反響し続けます。その意味では、あの場面は演出的には少し物足りなかった気もするけど、直秀の死に対して道長が政治を志す理念が定まり、民の平和な生活を守るという政治的理念を実現して一生を終えたことをまひろが総括する最終回は、きちんとテーマ的に照合していました。ホントなら、ここで悲痛な原体験の回想場面が入ったほうがいいと思うんだけど、それをするとまひろたちがちっとも老けていないことが分かってしまうので、できなかったんだと思います。あの場面は、シリーズ全体において、肝になるところなので、本当はもっと念を押したいところですが。
■「刀伊の入寇」を経て、貴族の時代から武士の時代へ、戦争の時代へ変貌してゆく、その時代の空気を感じ取って、「嵐が来るわ…」とストップモーションで終わった主張の強さは称賛に値するでしょう。まさに、時代劇は「髷を付けた現代劇」であることを明確に意識した作劇だったと思います。それは、内田ゆき、大石静、中島由貴の女性メインスタッフ陣の素直な思いであったと思います。ラストから遡って考えると、やはりなかなか立派な仕事だったと思います。いまを生きる女性たちが感じる、時代のきな臭さをはっきりと打ちだしましたね。
■大石静なので、メロドラマとして仕上げるのかと思いきや、意外にも硬派なテーマ性で仕上げました。最終回の道長の看病と看取りのあたりは、脚本執筆開始当時に亡くなったご主人の介護経験なども反映しているでしょうね。遡って、直秀の野辺の送りの痛切さのあたりにも、旦那を見送った感慨が込められているのではないでしょうか。
■一方、もちろん敢えての選択だけど、メンバーを老けさせなかったのはちょっともったいない気がします。柄本佑はもちろん大変な器なんだけど、老けて貫禄がついた演技も観たかった。昔の大御所俳優のような大芝居ではないにせよ、いかにも時代劇的な様式的な芝居もみたかったし、老いた姿と前半の若い姿を対比することで、テーマ性が引き立つと思うのだがなあ。吉高由里子にしてもそれは同じで、姿かたちは衰えて、肉体は時間の流れに押し流されるけど、昔友とかわした約束は、ずっとあの頃のまま生き続けるのだということを際立たせるために、やはりナチュラルに老けることは必要だったと思います。ただ、なぜか日本の映像業界の場合、老けメイクは苦手で、どうしても不自然になってしまうので、避けたのかもしれません。
■配役的には見上愛が実は一番の儲け役だったと感じるところで、モデル出身で天性の勘と度胸だけでこれを演じているのかと思いきや、実は日大で演劇の、しかも演出を学んだ理論派(?)なので、ちゃんと考えて演じているらしい。正直、舐めてました。あとは、伊藤健太郎。武士の時代の到来を象徴する若武者として、持ち前の明朗で爽やかな個性で、軽い役だけどちゃんと目立っています。もちろん『アシガール』の「若君」ですよ。そうそう、黒木華を忘れてはいけない。もうすっかり白石加代子(!)並みの貫禄で、さすがに役者ぶりのレベルが違うと感じました。

