人の世に、”植木等”あれ

 いつか来ると分かっていながら、そんな日のあることを想像することすら忌まわしかったXデーが遂に訪れた。われらの植木等が逝ってしまった。

 そして植木等の死によって、初めて知る事実。実父、植木徹之助を巡る、以下のような事実が明らかに。というか、今まで知らなかったのが我ながら不思議で、ひたすら不明を恥じるばかりだ。

お寺の和尚 「植木 徹誠」

 植木 徹之助、後の徹誠(てつじょう)という人は、皆さん良くご存知の植木 等の父親で、回船業・ 材木商の家に生まれましたが、結婚後、僧侶になった人です。
 徹誠 は、妻の実家の西光寺に身を寄せていた時、部落差別の現実を目撃して、これがキッカケとなって部落問題に取り組むようになりました。
 世の中の戦争熱が高まっている頃、招集令状を持って壇家の人が、徹誠に挨拶にやって来た時、「戦争というものは集団殺人だ。卑怯といわれても生き帰って来い。そして、なるべく相手も殺すな。」といって送り出したそうです。
 これは、徹誠 の「人間平等」、ひいては深い人権意識がしのばれるエピソードではないでしょうか。
 また、徹誠 は、「自分は部落民ではないと思う事が、すでに相手を差別していることだ」という信念を持ち、差別に対して即座に反応する感受性の強い人でした。
 徹誠の思想は、一貫して「絶対的平等が人間社会の根本である」ということであり、息子に「等」と名づける程「人間平等」を中心に置いていました。

   参考図書:「夢を食いつづけた男」(植木等著)、「父・徹誠を語る」(部落解放227号)

東京人権啓発企業連絡会HPより転載*1

 植木等が「ニッポン無責任時代」で演じた”平均”(たいら・ひとし)の出自が社会運動家であった父親徹之助の願い”平等”に由来し、部落問題に端を発していたことを知って、目から鱗が落ちた。

 当然、植木等自身はそのことを誰よりも深く認識したうえで、あの無責任キャラクターを演じていたわけだ。

 もちろん、監督の古澤憲吾にはそんな意図は微塵も無かったはずだし、脚本家にもそこまでの狙いは無かっただろう。

 しかし、その全ての意味を知った上で、植木等はあの無責任男を颯爽と溌剌と演じ続けた。

 生真面目だったという生身の植木等は、自分自身の心情とはおそらく正反対の位置にある人間像を芸として演じ続け、その矛盾のなかにある願いを秘めていたに違いない。

 そんなこと誰も教えてはくれなかったけれど。

*1:ただし、部落解放同盟系の団体らしいので、全てを支持するわけではないし、無批判に鵜呑みにしないように。

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